桂庵玄樹と文之和尚がいた串間市木の旧龍源寺

遣明船の寄港地

 室町時代には,日南市の油津湊や外浦湊は,日向灘に面した天然の良港として栄え,遣明船の寄港地として知られていました。その中で,市木の旧龍源寺は薩摩との交易上の要所であり,繁栄を極めていました。町も栄え寺院はかつて4カ所も存在しましたが,廃仏毀釈の影響で全て廃寺となりました。しかし,かつて桂庵玄樹を師と仰いだ学僧たちが,全国各地から訪れるなど,その名声は絶大でした。 

・廃校になった市木中学校(旧龍源寺跡)

 市木の地名の由来は明確ではありませんが,市木神社の祀神である「市杵嶋姫命」から市杵の名が付けられた可能性が高いと考えられています。薩摩藩統治時代には,薩摩市来の人々がこの地に定住し,地名を付けた可能性もあります。古都はかつて旧市木村の中心集落であり,今でも中心部の三叉路近くには古い家並みが残っています。歴史的には農村でしたが,市木川沿いには海抜5メートル以下の土地が多く,海岸線が湾奥まで達して漁村のような風景も広がっていました。字名も古都や門前に加えて,石波,海北,中福良などの海岸線に関連する地名が残っているのも興味深いです。

・ 旧龍源寺跡の墓石群

 1486年,島津忠廉が飫肥城主として櫛間をも治めることとなり,その後,室町時代の終わりまで島津氏支配が続きました。この時代,朝鮮や明などとの外国貿易も盛んに行われましたが,倭寇船との区別のために政府による勘合符貿易を行っていました。航路は,瀬戸内海経由で唐津の港を中心に行われていましたが,山口の大内氏が幕府に反抗したことから,安全ため航路が土佐,日向の太平洋沿岸を経由し,薩摩坊ノ津より薩南諸島を南下して中国に渡る航路が主流となりました。

・ 外浦湊

日向外浦湊

幕府の遣明貿易が盛んになると,幕府は島津氏に遣明船の保護や日向の国の浦々の警護を命じました。これにより,島津氏の外国貿易も盛んになり,日向の沿岸や飫肥の外の浦港,本城,崎田港などは外国船の出入りが活発化しました。この背景には幕府と大内氏の関係悪化により下関経由が困難になり,新たな四国・日向・薩摩経由の航路が求められたからであると言われています。島津家が櫛間を統治するようになると,この地に大内氏の外交顧問的な役割をもつ桂庵玄樹を旧龍源寺に置いたのは,大内氏への配慮があったとも言われています。以前から,薩摩と大内氏は石屋禅師を介して遣明貿易など良好な関係を壊したくなかったのでしょうか。

現在の龍源寺(臨済宗相国寺派)

・ 現在の龍源寺はかつての四寺院の名を合わせたそうで旧龍源寺とは関係がないようです。

旧龍源寺跡~薩南学派(朱子学)建学の地

・ 開基開山不明 中興開山の徹堂1338没「高鍋藩寺社帳」
・ 龍源寺栄光の百年「薩摩藩主の指示で桂庵玄樹が入寺した1487年から南浦文之玄昌が薩摩に退去する1588年までの百年間」は諸国から僧俗が参集し,隆盛を極め,全国的に学問寺として有名であった。
〇 桂庵玄樹島陰(1427~1508) 山口の人で鹿児島にて没。墓は伊敷町に現存。在明7年,薩摩に薩南学派を興す。龍源寺に入り学問寺として世に知らしめす。桂樹院開山, 龍源寺日向安国寺住,漢詩「島陰漁唱」也。~漢学起源
〇  南浦文之玄昌(1555~1620)  南郷外之浦(とのうら)の人,幼名不明。墓は鹿児島加治木に現存(国指定史跡)。    
・ 6歳~目井津延命寺天澤和尚に預けられる。    
・ 13歳~市木龍源寺の一翁から得度を受け,法名玄昌。黄友賢から中国語を習得する。    
・ 15歳~京都東福寺 龍吟庵煕春龍喜について修行。    
・ 26歳~修行終了後市木龍源寺に帰る。    
・ 27歳~市木龍源寺の住持となる。    
・ 34歳~豊臣秀吉の九州国分けにより,1587年串間地方は秋月領となる。文之玄昌をはじめ,  学僧は鹿児島へ移り,学問寺としての龍源寺はここに終わり普通の寺となる。
・ 南浦文集 文之は,薩摩藩のため尽力した。この間「文之点(訓読文)」を完成させ,平明・簡潔な文体を確立し,薩南学派の隆盛に努めた。世に「黒衣の宰相」としてその名を知らしめた。文之は日々,学僧としての厳しい修行に努め,人間愛に基づく崇高な倫理観・道徳観を説いた。特に文之の説いた朱子学は,明治維新の大きな原動力となり,今も鹿児島では「聖人」として崇められている。ここに文之の遺功を認め, 市木龍源寺の千載の形見として記す。(峯伯)
                         平成20年3月吉日 串間市教育委員会

南浦文之

・ 桂庵玄樹島陰の入寺は,1486年,島津忠廉が飫肥城主として櫛間をも治めることとなった翌年の1487年のことです。また1588年,南浦文之玄昌が退去するまでの百年間の期間は諸国から多くの僧侶が参集し,寺は隆盛を極め,全国的に学問寺として名高くなりました。

・ 南浦文之(なんぽぶんし)は宮崎県日南市外浦で生まれました。彼の著書には,種子島への鉄砲伝来の様子を記した「南浦文集」などがあります。

・旧龍源寺のおかれた役割~朱子学と航路の安全

 この港湾は日向灘に面し,湾奥に位置しています。日向大島が外洋からの波を遮るため,古くから天然の良港として知られています。特に室町時代には,遣明船の寄港地として,外浦港,目井津,油津の湊から串間や志布志に抜ける街道もあり交通の要衝として,賑わっていました。

・市木の中心地「古都」

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