桂庵玄樹の墓(伊敷町)

桂庵墓~日本の朱子学は薩摩から江戸に上った~

 今回,桂庵縁の地・山口県(下関市・山口市)を訪ねましたが,桂庵のことを知ってる人が殆どいませんでした。しかし桂庵と同じく大内氏の庇護のもと活躍した石屋禅師は,今でも山口県民に慕われていることを知り鹿児島県民として嬉しいでした。中世の時代,朱子学を始め禅宗系の教えは薩長両藩の精神的礎となったことは周知の通りです。これを両藩で築いた二人の天才学僧がいたことを私たちは忘れてはいけないと思うのです。

 桂庵玄樹は,日本で初めて「漢文に訓点を施し音読を多用する」ことで,多くの子弟たちに朱子学を広めていきました。この薩南学派での活躍が広く伝わると,京都五山に乞われて,戦で荒廃した寺院の復興に務め最高位(建仁寺第139代管主)にまで上り詰めたのです。しかし,再び薩摩の地に戻って,この地で没したのです。その理由の一つに,桂庵は「自分と同じ大内氏の庇護のもと,故郷山口を復興し,学問を広げる礎をつくった薩摩出身の石屋禅師に深い畏敬の念を持っていた」から戻ったのだと,個人的に確信しています。その根拠については,桂庵が若い頃下関で禅宗系(石屋派)の学僧たちと交流があったことなど「石屋真梁と桂庵玄樹」の中で縷々発信していますが如何でしょうか。

※ 応仁の乱前後の大内氏による学僧を使った西国諸藩への間者疑惑がささやかれています。妙円寺を薩摩の国に創建したのもその一つで,薩摩の動きは大内氏にとって気になるところであった筈です。石屋・雪舟・桂庵の役割は他にあったのではないかと邪推するのも歴史のロマンなのです。

桂庵玄樹とは

 桂庵玄樹は、1427年に山口で生まれました。40歳の時、学僧として大内氏の遣明船で明に渡り、7年間学んで朱子学を究めました。当時は応仁の乱で京都付近が荒廃し、多くの学僧たちは地方に離散していました。桂庵も各地を転々とし、やがて島津第11代忠昌に招かれて薩摩にやってきました。

 1481年には、日本最初の朱子学の新註本を出版し、薩摩の地で多くの弟子たちによって受け継がれ、「薩南学派」と称する全国的な学問の一派が誕生しました。その後、京の臨済宗寺院(建仁寺・南禅寺)など応仁の乱で荒廃した寺院を立て直し、離散した僧侶たちを教えるなど復興に尽力しました。晩年には再び薩摩に戻り、この地で天寿を全うしたのです(81歳)。

・ 桂庵の墓

薩南学派の系統

1 本流

 ①桂庵玄樹 ②月渚玄得 (安国寺) ③一翁玄心 ④文之玄昌 (大龍寺) ⑤泊如竹 ⑥愛甲善春と繋がり, 薩南学派の本流は藩主の庇護のもと,藩内に広がっていきました。

2 山川正龍寺 (伴姓頴娃氏)

 ①虎森和尚 (南禅寺出身) ②~④は不明 ⑤郁芳春本 ⑥月渓崇鏡 (1550~1570) ⑦問得 (1573~1596) ⑧文岳 (1596~1624)と繋がっていきます。

 この正龍寺は,薩摩藩の交易上の中継地で,学僧たちには唐通事の役割も担っていました。1596年,その地に藤原惺窩が滞在したのです。(当時の住職は⑦問得和尚の最後の年でした)この寺では,惺窩が中国に渡って求めようとした訓読法が既に子弟に使われていたのです。惺窩は一旦は中国に渡ろうとして硫黄島まで行っています。しかし風待ちでこの寺に滞在しているときに桂庵点を改良した文之点の盗用したことが詳細に「漢学起源巻五」の中に記載されています。

※ 当時よくここまで調べられたこと自体驚きですが,これが広く訓読法を開放し子弟教育に貢献してきた薩南学派の底力なのです。

3  日新公(1492~1568)と薩南学派

 ①俊安和尚 (田布施・常珠寺) ②舜田耕翁 ③舜有 (保泉寺)と繋がり,日新公の「いろは歌」刊行の基本理念など大きな精神的背景になったのです。

※ 日新公の母親常盤は、若い頃直接桂庵に教え乞い,常珠寺の俊安和尚に幼き忠良を託しました。

※ 頴娃氏の師である自畊祐田(頴娃証恩寺)は②舜田耕翁の弟に当たります。

桂菴禅師の墓碑(佐藤一斎による)

・ 桂菴禅師の墓碑

・ 桂菴禅師の墓碑(伊敷町上伊敷字仮屋232)
(正面) 永正五代辰丑六月十五日、示寂、 正興寺三十九世、前南禅桂菴玄樹大和尚禅師墓 世寿八十二、東帰菴開山也、 大竜寺院住宗玉 町田権兵衞・本田与市右衞門・四本正兵衞越山茂右衞門・鳥井如見・笹山慶賀・木村探元・田原武右衞門 師之墓百日有大杉樹、近年樹亡、株根僅存乎、
(左側) 泯没其処立石之譲、 于時享保七年壬寅十一月十日、現住大竜六世、 設シテ、身心修養ノ道ヲ計リ、尓来三十有余年、日夕文ヲ荊山叟宗玉書、
(背面) 妙谷十七世、道岸海門仁礼正膳五
・「石碑文」
 室町氏之季、文学掃地、搢紳博士遞世衰替、而浮屠氏専秉文柄、是以遣明之使、率在五山僧徒、且当時博士家巌守漢註、不許濫用新説、則世欲講程朱学者、必遯入緇流、髠其顱、而儒其学者往々而有之、在昔薩摩国在一禅師、曰桂菴字玄樹、号島陰、本貫周防山口邨人、不詳俗族、童卯往洛竜山、従雙桂和尚受内外学。嘉吉二年、師令十六、削髪登戒壇、儒書則依遵宋説、時間東山惟正、慧山景召並講四書禅余経学得益不堪、又能詩文、応仁紀元、中選使明国、入見憲宗、宴賚頗渥、居凡七年、遊蘇杭間、親従鉅儒、攻朱子経学尤邃書蔡氏伝、其於詩章則、与彼土之文士相頡頏、毎一詞出、芸林伝誦、称其有盛唐之風、文明五年、帰報使事、当此時京都兵燹騒擾不能潭学、於是暫避跡石州、亡幾又赴西州、是時東肥菊府、新寘黌館、崇儒学、師往而客之、既而薩摩国竜雲玉洞禅師、曁其国老数輩薦師於国主公、公乃厚聘請師、十年二月、師遂来薩摩、始謁公於市来公一見服其雅量、特加礼敬、明年乃命剏一寺於麑府、住師於此、因号其寺、曰島陰院、曰桂樹、十三年夏、師又与国老伊地知周防守重貞善、因胥議始刊大学章句於麑府、実皇国印行新註之嚆矢也、長享二年遷寺於城西、為今城北射圃阪地、初寺瀕海岸、善為風潮所堕、至此更地、称呼如故、十月、奉命適日州飫肥、董安国席、先是明商貢船多舶飫肥公遣族人忠廉、鎮其土、使師兼掌簡牘自後数往数還、至明応九年欽奉釣帖、主建仁寺、尋転南禅寺、未幾辞職、明年著一書、弁経註漢宋之異同、又以国字解朱註例定国読式、既乃築方丈於伊敷邨、名曰東帰菴、而自老焉。以永正五年六月之望、溘然示寂於東帰菴寿八十二、掩骸於菴地、曩者薩藩士伊地知小十郎季安、遠寄其所著禅師伝、且謂、桂菴雖浮屠、而於吾藩、則為儒学之宋矣。星霜巳久、人莫能知其由、因与同志者相謀、将戮力樹一碑以伝其跡、碑記之筆敢以為請不容峻拒、乃漫撮其一二、経緯之、余嘗為禅師像賛、今復書之於此、以代銘曰、 吾道一貫、無隠乎爾、身披禅衣、心服闕里、洛派東漸、寔自師始、心月千古、桂影遠被、
  天保十三年 歳次壬寅七月下澣   昌平黌教官 佐藤坦撰文

桂庵公園の案内板に書かれている石碑文の内容(現代語訳)

 室町時代の末期には文学がすっかり衰え、貴人・博士階級の人々も世が代わり衰退し、変わって 僧侶たちが学界・文学界の中心勢力となりました。そこで明国に遣わされる使者は,概ね五山の僧徒たちでした。一方,当時の博士家たちは,漢時代の註釈を厳守して,新説を乱用するのを許さなかったので,朱子学を講じようとする人は,必ず出家して僧侶の仲間に入ろうと頭を剃りました。そして,それらの学者が儒者となることがしばしばありました。

 むかし,薩摩の国に一人の禅師がいました。桂庵といい,字は玄樹,島陰と号しました。周防の国(山口県)山口の生まれですが,家系など詳しいことは分かりません。子どもの頃京都の龍山に赴き,雙雙桂和尚から内外の学問を受けました。1442年,16才の時,出家して僧となりました。

 桂庵禅師は儒学に関する書物については,宋時代の学説に従いました。東山維正(とうざんいせい), 慧山景召(けいざんけいしょう)らにより四書が講じられると聞くと修行の合間に赴き,ますます多くのことを学びました。また,詩文をよくしました。

 1467年(応仁元年),禅師は選ばれて明国へ使者として赴き,明の第8代皇帝憲宗に謁見し手厚いもてなしを受けました。およそ7年間の滞在中に蘇州や杭州の間を行き来して,優れた儒者の下で,朱子学研究の学問を修めました。書経は南宋の学者蔡氏(さいし)の著した「書経集伝」を究め,詩文については当地の文士たちと競い合いました。一つの詩文が出来るごとに文学者仲間に伝わり,唐詩の最盛期の作風があると称されました。

 1473年,帰国して使者の務めを果たしました。ところが当時の京都は戦乱(応仁の乱)の最中でしたので,学問を講じる状態ではありませんでした。そこでしばらく石見(島根県)に身を寄せ,間もなく九州に赴きました。このころ,肥後の国(熊本県)の菊池に新たに学校が置かれ,儒学が崇められるようになり,禅師はここに招かれました。そうしているうちに薩摩の国でも,龍雲寺の玉洞(ぎょくとう)禅師や薩摩の国老たちのすすめにより,島津氏第11代忠昌が礼をあつくして禅師を招くことになりました。

 1478年2月,禅師はついに薩摩に来て,忠昌と市来で初めて会いました。忠昌は一見して禅師の人柄に敬服し,一層敬うようになりました。あくる年,鹿児島城下に一寺を創建し禅師を住まわせました。寺号を島影といい,院名を桂樹といいました。

 1481年夏,禅師は国老伊地知左衛門尉重貞とはかって初めて「大学章句」という朱子学の註釈 本を鹿児島城下で刊行しました。実に日本で最初の出版でした。

 1488年,寺を今の城北射帆坂の地に移しました。初めの寺は海岸に近く風や潮の害を受けやすい所だったからです。寺の所在地は変わりましたが,呼称は元通りでした。

 10月,忠昌の命を受け,禅師は日向の国(宮崎県)の飫肥に赴き,安国寺の主席となりました。当時 飫肥には多くの明の商貢船が停泊していたので,忠昌は一族の島津忠兼を遣わし飫肥を鎮めさせていました。そこで,禅師には文書に関わる仕事を兼務させました。以後はしばしば安国寺と桂樹院との間を行き来し儒学を広めたので,弟子がますます多くなりました。時に,新たな版の「大学章句」の刊行も盛んに行われ,版木も磨り減ってしまいましたので,1492年,禅師は桂樹院で版木を再刻し,これを刊行しました。

 1500年,禅師は京都に赴き,幕府により建仁寺の主座となり,次いで南禅寺に移りましたが間もなく職を辞め,明くる年薩摩に帰りました。かつて禅師は四書の読法を精しく調べ,弟子たちに授けましたが,また別に一書を著しました。 それは,経書の註釈について漢・宋の学説の同異を明らかにしたもので,専ら宋説に依るものでした。 また,日本の国字を用いて朱子註釈例を解き,和訓の方式を定めて出版しました。

 そのころ禅師は方丈(小さな建物)を伊敷に立て東帰庵と名づけ,ここで老後を過ごしましたが, 1508年6月15日,にわかに東帰庵で亡くなりました。82歳でした。遺骸は庵の地に埋葬されました。禅師の著書には「島陰漁唱」「島陰文集」「島陰雑著」などがあります。

 先に,薩摩藩士伊地知小十郎季安が著書の「桂庵伝」を遠くから送ってくれましたが,その時に「禅師は,身分は僧侶ですが,我が藩においてはすなわち儒学の宗となすべき人です。しかし,長い歳月が経ち世の人はそのいわれをよく知りません。そこで同志の者とはかり,力を合わせて一碑を建て,その足跡を伝えようと思います。ぜひ碑文を書いてください。」と言ってきました。

 願みて私は文章が下手ですから当然辞退するべきでしたが,真心のこもった依頼文が遠方から来たので強いて断れず,みだりに禅師の事績の一,二を取り,その経緯を述べていました。私はかつて 桂庵禅師の画像に賛を書きました。今またここにそれを書いて銘文に変えます。

 禅師は吾が道を貫き通しました。それは隠れもないことです。身には禅衣を着ながら,心は朱子の教えに従いました。朱子学の伝統はしだいに東の方へ伝わりましたが,まことにこれは禅師より始まりました。悟りを開いた心は永遠にして,その心の月はいつまでも光の影としてくれることでしょう。

   1842年昌平學教官 佐藤坦撲        1843年中山正儀大夫 鄭元偉書

藤原惺窩と山川正龍寺(漢学起源巻五より)

※ 三百頁に及ぶこの「漢学起源」は,季安が藩の記録奉行として,室町期から江戸期に至る莫大な史料を精査すると共に民間に出回った史料と比較調査したものを編纂したものです。島津家の長い歴史がなければ発刊は不可能であったと思われる内容とその量なのです。当時佐藤一斎(林述斎)が林家塾長の立場で,林家の起源を否定することになっても「漢学起源」を認めざるを得なかったのでしょう。

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