桂庵玄樹の足どり

禅と朱子学

 1427年に周防国山口(山口市)で生まれたとされます。8歳の時に①南禅寺に入り,景蒲玄忻禅師の雑務係として仕え,同寺の惟正和尚や景召和尚,蘭坡和尚らから朱子学などを学んでいます。1442 年に剃髪して僧侶となったとされ,その後,第28代大内教弘に招かれて長門国赤間関(下関市)の②永福寺の住持となりました。桂庵の誕生地には下関説もありますが,永福寺の住持になっていたことからでしょうか。

・ ②永福寺

 大内氏の援助で応仁元年(1467年),40歳で遣明船で明国に渡ります。明に渡って簡牘外交(外交文書の往復を通じての外交)に従事するとともに禅と朱子学を学んだのです。中国に遊学して7年後に帰国しますが,京や近畿圏は南北朝動乱から応仁の乱と長い間,戦禍により荒れ果てていました。

※ この頃,大内文化を筆頭に京の文化や学問が地方に広まっていきました。その代表格が雪舟と桂庵だったのです。

 直ぐに京を避けて石見国(島根県)に入り,その後は故郷の周防国や長門国へ戻りました。この頃,南禅寺で学んだ以安巣松や,雪舟(共に同じ遣明船で中国へ留学した友人),薩摩の絵師秋月等観(渋谷一族の高城氏出身)とも永福寺で会っていおり,桂庵を介して秋月は雪舟に師事するようになります。また,各地の大名たちは戦禍を被った寺院の復興や家臣の立て直しのために,禅宗系の学僧を探し求めていました。桂庵も1476年に豊後国(万寿寺),さらに筑後国と渡り歩きます。翌年には肥後国(孔子堂)へ入り,守護の菊池重朝の厚遇を受けました。

・ ⑦建仁寺「第139代管主」

島津氏と大内氏

 1478年,薩摩国市来の龍雲寺や冠嶽の僧らの献言もあって,島津11代の忠昌が桂庵玄樹の招聘を決めました。一番の理由は,将軍家や大内氏の遣明船の警護する役目から大内氏の外交顧問であった桂庵を優遇したとも言われています。また,大内氏の庇護のもと,防府や長門国で活躍していた石屋禅師の故郷・薩摩の地が,禅宗系寺院を厚く信仰していたことも薩摩へ行く大きな要因として考えられます。(今回山口を訪れ,石屋や石屋派の関わった寺院が今でも山口県民に慕われていることを知り,その実感を強く持ちました。)

 1478年,桂庵玄樹は薩摩国の③龍雲寺(玉洞禅僧)に二カ月ほど滞在し,冠嶽(宗寿禅僧)に行きました。そして,鹿児島で島津忠昌に謁見します。翌年,大隅国や日向国を視察して鹿児島に戻ると,島津忠昌は桂庵玄樹のために桂樹院島隠寺を立野に建立しました。「④島陰寺」(祇園之洲の田ノ浦周辺)とも称しました。これは「向島(桜島)の陰」という意味であり,後に桂庵玄樹は「島陰」の別号も用いています。この寺で藩主忠昌をはじめ多くの学僧たちが学んでいます。 

・ ③龍雲寺

薩南学派の広がり

 桂庵は,「宋の時代から朱子学を学ばなければ学問ではない」と早くからその必要性について説いています。また彼の著書には「家法和訓」「島陰集」「島陰雑著」などがあり,1481年には島津家の国老である伊知地重貞とともに,朱熹(朱子)の『大学章句』の新註本を刊行しています。これが日本最初の体系化された朱子学新註本とされています。「家法和訓」は,四書(大学・論語・孟子・中庸)の読み方を弟子に教えるために桂庵が著したテキスト本で,薩摩で初めて出版した新註本をになります。しかし,京都五山等では既に博士点や岐陽点などが流行していました。およそ漢字だらけの仏典等を日本で伝えること自体が訓読であり,当然多くの解釈が存在していたようです。

藤原惺窩の訓読法は剽窃(パクリ)ではなかった!

 伊地知季安の「漢学起源」や「西藩野史」,「三国名勝図絵」などに「山川正龍寺に四書訓点本並びに家法和点を写して,自分の訓点として世に広げた」と,藤原惺窩の剽窃(著作盗用)が薩摩では伝わっています。しかし,原口虎雄著の「鹿児島県の歴史」によると,薩南学派の泊如竹(とまりじょちく)が遊学先の京都本能寺で「漢学(新註和訓)の起源は薩摩にある」ことを知って,直ぐに帰郷して文之の弟子になったそうです。

・儒学と朱子学の変遷「惺窩と羅山」

 この頃すでに京都では,五山を中心に学僧たちの間で訓点が広がっていました。惺窩が山川正龍寺で文之点の原本を持ち帰ったことは事実のようです。しかし,それをもって剽窃(盗作)したことには当たらず,むしろ惺窩或いはその弟子が「薩摩では既にこんな訓読法を取り入れていますよ」と,京都の寺院に紹介していたことになるのです。後年,泊如竹によって,文之の「四書集註(桂庵点を補正した書)」は江戸で刊行されました。当時,惺窩や林羅山の註釈は門外には解放されていなかったので,文之の四書訓読が宗本として広く知られるようになっていたそうです。

 一方,江戸期における林羅山の系統は,前述の「儒学と朱子学の変遷」のように新井白石や本居宣長等により官学として全国に広まり,薩摩の若き獅子たちもその影響を多大に受け,維新へと突き進みました。惺窩の実績は凄いもので,我が国の学問を飛躍的に発展させたもの厳粛な事実なのです。

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・ 龍雲寺(東市来) 1478年龍雲寺の玉洞和尚は,桂庵禅師が肥後にいることを知り,当主忠昌公に相談し薩摩に招くことになった。2ヶ月滞在し城下の田之浦・島陰寺に移った。

 その後は日向国飫肥(おび,宮崎県日南市)の⑤龍源寺(1488)や⑥安国寺(1493)に入り,1498年には入京して,⑦建仁寺(第139代管主)や⑧南禅寺に入っています。1501年に薩摩国に戻り⑩,大隅国の⑨正興寺(鹿児島神宮別当寺)の第30代住職になりました。翌年,薩摩国伊敷に⑩東帰庵を結んで隠棲し,1508年(81歳)にこの地で没しています。

 ・ ⑤旧龍源寺跡の墓石群

 室町幕府の足利尊氏は,1338年以降全国66カ所に戦死者供養のため,安国寺を創設しました。日向国安国寺は,北郷郷之原に崇山居中を開祖に1342年に開かれています。その後,飫肥城主になった島津忠兼は当時の荒廃を惜しみ,1487年に寺地を飫肥板敷中島田に移し,薩摩国から薩南学派の祖,桂庵玄樹を招いて中興したのです。桂庵は大内氏との外交僧の役割もあり,島津藩主の計らいもあったと言われています。

・ ⑥飫肥安国寺

 当時,遣明船(特に大内船の警護)や琉球渡海船の寄港地として開かれていた南郷外之浦や油津の港では,往来する船や積荷の多い港でした。その警護を幕府は島津家に依頼しており,時には遣明船の副使として乗船するよう要請していました。また,安国寺の僧は簡読(通事)の役目も担っていたのです。

・飫肥学問の祖・桂庵禅師之塔

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