桂庵玄樹の足どりを訪ねて隼人「正興寺」

市指定「弥勒院・正興寺等墓域」

 桂庵玄樹が関わった寺院に隼人の正興寺(大隅国一之宮・鹿児島神宮別当寺)があります。大隅国で正八幡宮がいかに勢力を誇っていたのか,宮内小の近くに四社家(正八幡宮の宮司などを務めた家柄)の巨大な土塁や堀が今でも確認できるほどです。

 しかし,廃仏毀釈によって鹿児島神宮周辺に存在していた多くの寺院が消滅しました。その後,放置されていた墓石群が集められ,宮内小学校の裏手(宮内地区公民館横)に整備されました。弥勒院は,かつて宮内小学校の場所にあった大きな寺院で,鹿児島神宮の別当寺(神社の管理を行う寺院)として大隅半島に大きな影響力を持つ寺院でした。

 明治の神仏分離令や廃仏毀釈の影響で,お寺や仏像は破壊されました。それまでの神仏習合期には,弥勒院には神官と僧侶が共存していた時代もあったのです。弥勒院が失われた後,建物の一部は「明道館」と改称され,現在の宮内小学校の基となりました。

 正興寺は鎌倉時代の永仁年間(1293年〜1299年)に創建されたと伝わる寺院です。弥勒院(宮内小)から北東方向に数百メートル離れた山尾根に位置し,現在は用水路沿いの公園になっています。この寺には学僧の桂庵玄樹や南浦文之が在籍していました。正興寺も鹿児島神宮の別当寺であり,大隅半島で大きな影響力を誇っていましたので,桂庵が藩主に招かれたのも,この寺の勢力の大きさによるものと考えられます。

 正興寺は,禅宗系の臨済宗の寺で,本尊は釈迦如来でした。大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の三つの別当寺,「正高寺(真言宗)・正国寺(律宗)」と同様に,「正」の字が付いています。正興寺では,39代に薩南学派の桂庵玄樹,40代に雲淑,41代に文之玄昌が住職を務めています。文之和尚は,義弘の外交顧問であり,鉄砲伝来の記録「鉄砲記」を著した学僧でした。

 ・その一「石體宮」

 また,豊臣秀吉が朝鮮を攻めた文禄・慶長の役の際,薩摩と明が協力して秀吉を打倒しようという計画があったそうです。この計画の際,大隅半島の内之浦に明の工作船が頻繁に出入りしていました。その際,交渉を行ったのが正興寺の僧侶である玄龍という人物であると,中国の「敬和堂集」という記録に記されています。年代的に,「倭僧玄龍」は雲淑和尚か文之和尚ではないかと言われているそうです。

・その二「弥勒堂」

・その三「鹿児島神宮」

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