牛根稲荷の「埋没鳥居」
桜島大爆発の痕跡を探しに,桜島の黒神と垂水市牛根の稲荷神社の「埋没鳥居」を訪れました。桜島の黒神から国分方面に向かうと,大隅半島の付け根に架かる美しい牛根大橋が目に飛び込んできます。橋を渡るとすぐに牛根麓漁港が見え,さらに進むと海側に有名な足湯のある「道の駅たるみず」が現れてきます。その国道の途中から右折し山腹に向かうと,稲荷神社の「埋没鳥居」があります。
・ 牛根の稲荷神社
駐車場横の階段を登るとすぐに稲荷神社の鳥居が見えてきましたが,大正3年の桜島大噴火によって埋もれ,鳥居の左右がズレてしまっています。奥には稲荷神社がありました。
・稲荷神社の埋没鳥居
ここ牛根郷は,対岸の鹿児島市吉野町の花倉(方言で消え倉の意味の崖崩地区)や竜ヶ水(龍のごとく走る土石流)のように,鹿倉峠から瀬戸海峡に滑り込む山容は,正に姶良カルデラの縁であることが分かります。
牛根の地名由来は,「鹿倉峠の山容が牛に見えそのつけ根」などの説がありますが,牛深・牛ノ浜・牛尾・牛垣など全国の海岸沿いに多い潮(牛)地名の可能性もあります。大爆発で陸続きになる前までは,きっと潮の流れも速かったのでしょうね。
この地は落人伝説が残る地域でもあり,関ヶ原後,宇喜多秀家公が2年3ヶ月を過ごした場所としても有名です。後に幕府に捕らわれ八丈島に流刑となりましたが,藩主家久らの助命嘆願もあり遠島で済んだのでした。
・ 宇喜多秀家公の潜居地跡
牛根稲荷神社の埋没鳥居の案内板によると,牛根城(松ヶ崎城・入船城)は,室町期(1338〜1341)の頃,牛根道綱が居城した後,建部氏(池袋氏),本田薫親の所領を経て,1552年に肝付氏の領有となっています。この頃,肝付氏は勢力が強く,伊地知氏や禰寝氏と結び,1561年に島津氏に反乱を起こし,約13年にわたって激しい争いを繰り広げたそうです。
笠仏首塚と六地蔵塔
1572〜1574まで牛根城主の安楽兼寛(肝付一族)は,薩隅日の三州統一をめざす島津軍と戦い多くの戦死者を出しました。近くの「笠仏首塚」の跡は,島津軍と安楽・肝付軍の激戦地で,数百年後の江戸期に畑から数百体の人骨が出て,1818年に領民たちの手で六地蔵塔が建てられています。
・ 六地蔵塔
供養塚の案内板より
・ 笠仏首塚
1572年10月,島津義久軍5000の兵が,小浜の砦を攻め落とし,翌1573年7月には早崎台での争奪戦に続き,牛根城の攻略に全力を注ぎました。牛根城は難攻不落の要塞であり,日向の伊東氏からの救援の噂もあったようです。島津軍は矢文を放ち和議の交渉を試みました。その際の矢文の内容は次の通りです。
和睦の矢文の歌
① 島津義久からの矢文
弓はうし ねは折れよとも 引かへて かぶとを脱かば やがて安楽
※ 直訳「弓を立て掛け 返書を返して 降参すれば 直ぐに安楽(貴方にも)が訪れますよ」
② 安楽兼寛からの返書
ひくもうし ねろう心も もののふの あずさの弓の ゆかりなりせば
※ 直訳「弓を放って敵を狙うのは,梓の弓(招霊に使用する弓)のような心持で武士としての誇りでもあるので,引く(降参)ことはしませんよ。」という内容のようです。 ※ 正確な解釈ではありませんので,悪しからず…。
共に「うし+ね(牛根)」を掛けた歌で,激戦の中でも冷静である二人の武将は,侍としての高い学識と気品を感じさせますね。1574年1月,両軍の和議は成立しませんでしたが,この戦いは激しく,多くの戦死者を出しました。戦後,両軍の亡骸を埋め,供養するために「笠仏首塚」が築かれました。その後,江戸末期に周辺の畑を耕すと多くの人骨が出てきたため,1819年に戦死者を供養するために「六地蔵塔」が建立されたそうです。
牛根城
1574年,牛根城が落城し,安楽兼寛より城を明け渡された島津義久は,伊集院久道を牛根郷の地頭として治めさせました。そして同年,久道は,稲荷神社を創建しました。牛根神社帳によると,祭日は9月13日と11月28日で,神楽内侍舞神社は4敷2間,上家は茅葺きで,鳥居の石の高さは3.7mと記されています。しかし,桜島大噴火により埋没し,現在は約1.45mの高さです。この神社にはかつての鳥居が現存するのみで,社殿には石灯籠(1764年)があります。
案内板に,「稲荷神社の南西方向300mの山手に,かつて牛根城がありました。その下の牛根麓を中心に政治が行われていました。噴火による牛根麓の被害は甚大で,道路や田畑には約90~120㎝の降灰が堆積し,松ヶ崎小学校校舎や村役場,民家32戸が降灰により倒壊し,多くの避難民を出しました。牛根稲荷神社の埋没鳥居は,桜島の大噴火を後世に伝える貴重な資料として,垂水市の天然記念物として指定されました。」とありました。
これまでこの鳥居は地域住民にもあまり知られていないようでした。今後は是非,桜島・黒神とタイアップして,広く知られ多くの人が訪れるように願っています。
居世神社
・居世神社(三国名勝図絵)
第29代欽明天皇の皇子とされる人物が,流されてきました。彼は近くの農夫の家で育てられましたが,13歳で亡くなりました。その後,彼の霊を祀るために祠が建てられました。文明年間(1469~1487)になり領主の建部宗論公によって「居世神社」建立され,地名から神社名が付けられ,村の宗社としました。居世神社は天皇家にまつわる神社であったので,この地に潜居していた宇喜多秀家は2年3カ月の間,一日も休まずお参りしたそうです。