Ⅰ 正龍寺と福元墓地

旧正龍寺跡の石塔群

 県内には多くの石塔群を有する寺院がありました。明治の廃仏毀釈(日本で最も激しかった藩)により場所や名称を変えた寺院,案内板だけの跡形もなくなった寺院もあります。そんな中,この寺の石塔群はかつての姿を残している数少ない寺院の一つです。

・ 正龍寺跡

・ 河野十太郎・酒器

緻密な彫刻技術の山川石

 佐々木家の墓石は,島津家の墓と比較しても引けを取らないほど立派であり,南薩地方の中世の山川石製の宝篋印塔や六地蔵塔とも比較にならないほど緻密な彫刻技術が見られます。また,河野十太郎の名前も確認され,幕末に活躍した人物のものと思われます。(1832年に没した)

 正龍寺は当時の学問水準の高さから名僧を輩出し,この寺は「薩摩藩文教の府」とさえ言われました。また,貿易港である山川港に入港する外国船の外交文書(主に中国語)の翻訳(筆談)や授受にも関わっていました。しかし,明治2年の廃仏毀釈により廃寺となり,その際に散逸した墓石がこの墓石群に収集されたとされています。当時,寺院関係者の手で隠されました。一部破損も見られますが,碑文の内容等も明確に残っています。

・ 煙草入れ

・ 碁盤

福元墓地の墓石群

 山川の旧正龍寺跡横の福元墓地に河野家と佐々木家の墓があります。河野家は薩摩藩の貿易商を生業にした山川の豪商で,代々「覚兵衛」と名乗る家柄でした。奄美・琉球から得た黒砂糖や交易品を大阪方面に運び,財を成したと伝えられています。河野家の墓は初代から7代までの歴代覚兵衛の墓が残っています。その多くが山川石で作られており,装飾性に富んだ宝篋印や五輪塔が特徴です。故人に由来する碁盤や酒器等が彫刻された珍しい墓石です。

・ 福元墓地の佐々木廣包の墓

奄美の墓石文化の受け入れと墓石の輸出

 江戸時代の墓石文化は、徳川幕府の影響が及ばなかった蝦夷地(北海道)や風葬や洗骨,再葬が多い琉球文化圏では墓石を建てる習慣はなかったと言われます。一方で薩摩島津氏の琉球侵攻(1609)以降、薩摩の直接的支配下に組み込まれた奄美は、琉球国(薩摩は意図的に琉球の文化や習慣に干渉しなかった)と異なり墓石文化を受け入れたようです。 

 そして江戸期以降(トカラ列島ではそれ以前から),山川石の墓石は奄美や徳之島などでも多く見られるようになりました。山川からの船で琉球に向かう空船に積み込む輸出品として目を付け,奄美群島に運ばれたものと考えられます。山川の寺院や貿易商人たちは多くの石工を抱え,山での切り出しから彫刻や線刻までを行い,完成品として大隅や奄美に輸出していたようです。奄美では,現地の石工が墓の名前彫りや追加の彫刻を施す程度にとどまっていました。

 ・徳之島伊仙の松山墓地

 山川の福元地域で産出される黄色い石は「山川石」として知られており,その正式名称は「福元火砕岩類」で,柔らかく彫りやすいのが特徴です。指宿市内の歴史的な石塔,墓石,仁王像,灯籠などのほとんどは,この山川石で造られています。

・ 茶器

・ 酒器

はしむれ館の企画展

 先日,指宿のCOCCOはしむれ館で開催された企画展「海が織りなす焼酎文化~芋・技・肴・器~」を見に行きました。指宿は,「中世から国際貿易港として繁栄し,焼酎の黎明期に重要な役割を果たしてきた」とのことでした。この展示では,焼酎の歴史的な側面に焦点を当て,具体的な展示物などで魅力を紹介していました。

(1)  山川港は中世から国際貿易港として栄え,焼酎文化形成の黎明期に深く関わってきた地です。企画展では,海を越えて鹿児島にサツマイモや蒸留技術が伝来した歴史や文化,酒の肴や酒器などが紹介されていました。

(2)  はしむれ館の企画展では,鹿児島で古くら愛される「芋焼酎」の蒸留技術や肴,酒器などが紹介されます。企画展「海が織りなす焼酎文化〜芋・技・肴・器〜」では,焼酎の誕生,さつまいも伝来の立役者,芋焼酎の製造技術の確立等楽しく学べる講座でした。

・ 小船

山川の豪商・河野家

 河野家は、藩の貿易商人として、大島や琉球、南方諸国との貿易を生業としていました。前田利右衛門は、サツマイモを琉球より初めて伝えた人物で有名ですが、もともと河野家の船で働いていた水夫でした。船が食料調達のため琉球に寄港した際、甘藷を発見し、栽培用に持ち帰った芋が、後のサツマイモであったそうです。

 後年,前田利右衛門の偉業を伝えるため岡児ケ水に徳光神社を建立したり,生家近くの墓に顕彰碑を建てたりした人は、主人に当たる河野家7代目の覚兵衛通直と覚兵衛の実父である佐々木十左衛門廣包(河野家の養子)が建立したものなのです。~山川の文化財である「河野家の傳」より~

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