武岡の高射砲台下の防空壕【R5】7月4号

秘密基地

 今では住宅街になっているが,昭和40年代まで,長島美術館下の常盤トンネルから武岡トンネルまで続く山手側斜面(現在は住宅地)は,墓地「笑岳寺墓地(武岡墓地に移設)」が広がっていた。当時は子どもたちの秘密基地がたくさんあって遊び場になっていた。新幹線トンネルの横の迫を登り墓地を過ぎ谷間に入ると左右に数か所長い防空壕があり,その中の一つを「階段部屋」と呼んでいた。数段の階段を上ると,鉄製の外れた扉がシラスの壁に立て掛けてあった。中に入ると10畳ほどの部屋に古いテーブルや棚が置かれてあったのを記憶している。他の防空壕も数十メートルと長く,途中には空気の取り入れ口の横穴がいくつも掘られていた。近くで空の薬莢を拾っていたので,おそらく戦時中の武岡の高射砲台の砲弾倉庫か司令部の一部(?)ではなかったかと思っている。

全校朝会

 この頃,近隣の小学校では,「絶対山に入るな」と厳しい指導があったが,何故なのか細かい説明は無かった。自分たちが苦労して作った秘密基地があり憩いの場でもある。当然言うことを聞くはずもなく,特に,カクイワタの看板(現在はない)下の斜面は,ケヤキやエノキ,タブノキなど大きな樹木が立ち並び,週末の絶好の遊び場であった。枝ぶりがよく基地になりそうなタブノキの近くには何故かハゼノキも多かった。鋸で小枝を切り縄で縛り台座を造っていくと不安定ながら見張り台のような景色が西駅側に広がった。自ずと基地を大きくしたいと欲が出てくる。当然ハゼの木の枝も利用した。三人とも「ハゼ負けしたことがない」という自信があったからだ。

武岡・高射砲台の関連基地

 翌日の月曜日は全校朝会,私たちの顔は赤く腫れあがっていた。校長先生が登壇するといきなり「全員座りなさい。そこの三人立ちなさい。山には行くなと何度も言われているよね。」何のことか分らぬまま,全校生徒の前で叱られ,その後担任にも絞られ散々であった。なぜ山で遊んでいけないのか,私たちには説明がなかった(親には…?)が,数年後友人の父親から武岡の戦時中の高射砲基地のことを聞いた。その当時,沖縄で不発弾が爆発し子どもが亡くなる痛ましい事故が報道されていたそうだ。ここの防空壕もそういうことだったのかと後から思うことだった。

 平成17年,武岡の防空壕で中学生4人が亡くなる痛ましい事故があり,その後各小学校による一斉調査があり防空壕は全てコンクリートブロックで塞がれた。私たちが子どもの頃はむせながら薪で風呂を焚いた経験もあるが,やはり今の子どもたちには「危険な場所は何所か,どうして遊んではいけないのか」をより具体的に教え,危機管理の能力を高めていく必要性を痛感した。

 終戦の年の昭和20年3月~8月には鹿児島市上空にも米軍の大型爆撃機ロッキードや戦闘機グラマンが飛来し多くの死傷者を出している。市街地を敵機から守るため長島美術館近くや紫原,城山その他数か所に高射砲台があり,武岡の砲台基地は厚いコンクリートで覆われた高射砲3基や聴音器が据え付けられていたそうだ。「階段部屋」はこの時の弾薬庫か何かであったのだろうか。迫の奥には山頂に上る道も作ってあった。

・ 鹿児島の「シラス台地」~戦時中は防空壕として,戦後は地域や農家の倉庫として利用されたが,管理不足のため事故も多かったと聞く。防空壕は掘りやすく便利である反面,崩れやすく危険なものでもある。鹿児島ではよく言われ続けてきていることではあるが…。

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