歴史雑感「琉球侵攻400年祭」~その1~《R6》2月10号

琉球侵攻400年記念祭「沖縄・鹿児島連携交流事業記念式典」

 2009年の南日本新聞に「琉球侵攻400年記念式典」に関する記事が掲載されていました。名瀬市でのイベントで鹿児島県と沖縄県の両知事が握手を交わし,両県の交流を深めようとする趣旨の内容だったと記憶しています。

・仲井眞知事と伊藤知事

 その記事には,奄美の市民団体の抗議の様子が写真付きで掲載されていました。一瞬,「えー,こんなことで騒ぐんだ」と思いましたが,直ぐに徳之島勤務時代に地元の方から聞いた琉球や薩摩に支配されていた苦難の時代の話を思い出しました。

 伊藤祐一郎知事と言えば,出水郷旧家の武家出身ですので,先祖が琉球侵攻に参加した可能性があります。また,仲井眞知事にしても沖縄の名門家系に生まれているので,先祖に奄美「那覇世」時代の王府高官がいるはずです。つまり,奄美を支配した両者の子孫がその支配地で握手をしている光景は,奄美の人々にとってどのように映ったのかを考えるべきでした。もちろん,両知事に差別の意識は全くないのですが,トップの責任として過去の問題であっても,少数の県民の立場にも配慮した施策を行う必要があるのではないでしょうか。

 薩摩や琉球が奄美の直轄支配に対して謝罪がないまま400年式典を迎えているのです。両知事が奄美で会うせっかくの機会でしたので,未来志向の協力関係の前に過去の歴史を清算する場があっても良かったと思うのです。

 時代や国の状況が異なることを考えると,例えがおかしいかもしれませんが,仮に1992年に「文禄・慶長の役400年記念式典」が韓国ソウルで開催され,日本の首相と中国の国家主席が握手して和解宣言を行えば,多くの韓国人が憤慨するであろうと思うのです。

・沖縄と奄美群島の交流拡大の締結式

あまみゆ(奄美世)となはゆ(那覇世)について

 奄美群島も以前は「あまみゆ(奄美世)」として,自らの意志で自由な生き方をしていましたが,「なはゆ(那覇世)」では,琉球支配の苦難の歴史を背負っていると感じています。沖縄県の公式歴史には薩摩の「琉球侵攻」は大きく取り上げられていますが,琉球による「奄美侵攻」の記載はごく限定的な史料しかありません。まるで奄美は同じ琉球文化圏でないかと正当化しているようです。沖縄県のホームページで奄美への侵攻についてほんの僅か記載するだけで,相手の立場で最低限の謝罪の意を示すことになります。 

 鹿児島県のホームページでも,琉球侵攻という表現ではなく「琉球出兵」という薩摩藩側の立場を取っています。そのため,名瀬市の「琉球侵攻400年記念式典」において,薩摩,琉球両方から征服された奄美への配慮が両県共に欠けていたことになります。県の担当者が気づくかどうかは別として…?おそらく「奄美は鹿児島県の一部ではないか,国の奄美群島振興開発事業(奄振)でお世話になったのに,どうして未来志向の考え方が出来ないのか」と言いたいのかもしれません。

薩摩の琉球侵攻と奄美の直轄について

 薩摩の琉球侵攻の際に奄美群島が受けた被害(最大の激戦地,徳之島の死者数は300名に及ぶとも)の大きさを考えると,琉球王国がさほど抵抗せずに首里城を明け渡した感が残ります。実際,王府は徳之島に上級役人(与那原親雲上)を派遣し薩摩軍に対して徹底抗戦を促しています。若い掟役の兄弟たちが親雲上に異を唱えることも叶わず,徳之島の多くの若者が惨殺されたのです。さらに,その役人たちは状況が不利になると山に逃れ,薩摩の山狩りにあい捉えられているのです。このようなことから,奄美で抵抗させ侵攻後の琉球王国の扱いについて,薩摩との交渉の材料にしているようにすら感じるのです。

 琉球が支配された後,結果的に奄美だけが薩摩の直轄地として支配されたことも,王府によってうまく利用されたように思うのです。もちろん薩摩も当初から奄美諸島の割譲が目的で,江戸幕府の意向により中国との交易上,表向き琉球支配は行いませんでした。1624年「琉球・奄美の名字・衣服の大和様式化の禁止」で「沖縄の三字姓や奄美の一字姓」など対中国寄りの政策を行っていました。つまり奄美(徳之島)は沖縄の防波堤のような存在になっており,奄美は琉球以上に過酷な支配下に入って行ったことを忘れないで欲しいと思います。徳之島の一字姓の方が,昭和30年代になってようやく二字姓に戻した話を聞いたことがあります。

・ 亀徳の秋津神社 

営業マンの話

 昭和50年代,西日本各地を営業で訪れていた鹿児島の営業マンの話を聞いたことがあります。営業している中で,沖縄県や大分県,熊本県で「鹿児島から来ました」と言うと他県とは異なる冷たい応対を感じることが幾度かあったそうです。これは,島津氏(鹿児島)による九州討伐や琉球征伐,西南戦争などの悪い印象が影響しているのではないかとふと頭をよぎったとのことでした。そこで接待等の中で島津の民衆支配や砂糖キビ地獄の話をすると徐々に対応が良くなったというエピソードです。他にも,会津の女性は長州人(一部薩摩人も含む)とは絶対に結婚させないとの話も有名であるように,歴史は後の時代まで影を落とすこともあるのです。

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