歴史雑感「琉球侵攻400年祭」~その2~《R6》2月11号

「那覇世」の時代,琉球王家から派遣された首里之衆

・徳之島町郷土資料館

 那覇世の後期(1562年),琉球王府から国王の重臣だった「首里之衆」という人が徳之島の押役探題譜代(遠隔地で代々軍事等に携わる職)として初めて派遣され,徳和瀬の海岸に上陸しました。彼は琉球中山王国の浦添按司の子孫で首里王府の高官でした。国王から金の髪指,紫の鉢巻を授けられ,道の島の南三島の押役として任命されました。徳之島では大親として,徳之島の田畑を与えられ,彼の子孫も「与人・目指・掟・筆子」などの島の役を受け継ぎました。彼ら子孫もまた国王から官位を下賜され,国王の御前で謁見を許された身分で,徳之島の大親役として代々受け継がれていきました。

・首里之衆が上陸した徳和瀬海岸

王家と家臣団の家紋について

・琉球王家(左三つ巴紋)

・徳之島・首里之衆一統(右三つ巴)

 家臣団は王家の「左三つ巴紋」は使えないので,徳之島の首里之衆一統の家紋は反対向きの「右三つ巴紋」です。武家の家紋は日本特有の文化で,家系や血統を表すために使用され,中国や韓国には余り見られないようです。王家の「左三つ巴紋」に関しては,一つの説として平家系の神社仏閣が多く使用していたため,江戸初期の侵攻後に薩摩(島津は源氏直系と主張している)が強制的に使用させたという説があります。

□ 琉球侵攻400年祭「沖縄・鹿児島連携交流事業記念式典」その2

名瀬市での式典に対して市民団体が反対する理由(順不同)

(1) 沖縄の人は,奄美侵攻を「同じ琉球文化圏内の協力関係として捉え侵攻とは言いませんが,薩摩による琉球侵攻は明治時代に至るまで続いていた重大な弾圧の歴史であると捉えています。やはり,沖縄が薩摩による琉球侵攻の苦難を強調する以上,奄美への侵攻も正確に伝えるべきです。

(2) 開催場所でも若干状況が異なるかもしれませんが,奄美でわざわざ「琉球侵攻400年記念式典」を開催する必要性についてはやはり疑問が残ります。(那覇市でも良かったのでは…?)もし両県が世界遺産登録を目指しているという思惑があるのであれば,日程や名称の変更など,他の方法が考えられたはずです。

(3) 沖縄県のHPに「尚寧が捕らえられ薩摩へ連行される」項目はあるものの,琉球が奄美に侵攻し接収したという記述は見当たりません。一方で,薩摩藩が奄美を割譲し直轄地とする」という記述がありますが,これはまるで元々琉球の一部であったかのような書き方です。

 沖縄の学者によれば,「奄美は琉球文化圏に属し,琉球からの侵攻時に奄美の人の被害も少なく何より文化的に発展した」とのことですが,これは納得できない話です(どこか韓国人が日本に発信する話に似ています)。沖縄県も薩摩に侵攻されて経済的・文化的も押し付けられたと主張する以上,先のウェブサイトに奄美侵攻についての記載があるべきだと考えます。

(4) 薩摩や琉球による支配,奄美や沖縄の内部の矛盾や問題,そして今回のイベントに関する議論は多岐にわたります。記念式典に対する抗議行動があったことで,浮かび上がった問題は明らかです。例えば,奄美の一字姓や沖縄の三字姓のことは鹿児島の人は殆ど興味がないようですが,奄美や沖縄でもっと広くこの問題を知らせ,議論を深めていくことが必要だと思います。

(5) 「沖縄・鹿児島交流拡大宣言」には,「琉球弧」「黒潮文化圏」「海の道」といった言葉が躍っています。しかし,「奄美の不幸な歴史」の一句は見当たりません。美辞麗句の羅列によって,奄美に対する琉球,薩摩の支配,抑圧,差別などの歴史と現実が隠蔽されています。その結果,華やいだイベントが演出される中で,連携交流を阻害する後ろ向きの行為であるかのような雰囲気さえ作り出されていきます。(南海日日新聞)

(6) 1609年,薩摩による琉球出兵・侵攻から400年を迎えたこの年,過去の出来事や成果をしっかり踏まえつつ,両県が真の隣人としての関係を新たに構築し,未来に向けて交流を拡大し,発展させることが重要である。未来志向を前面に出して過去をあっさり清算する,いかにも行政的な『宣言』である。(奄美新聞)

(7) かつて徳之島に住む高齢者から聞いた話です。徳之島の人の多くが,沖縄に関しては「同じウチナンチュー」で,内地(鹿児島)とは異なる感情を持っていました。しかし,奄美が先に本土に復帰したとは言え,戦後アメリカ統治下の沖縄で,奄美の人の公職追放や差別事案がたくさんあり,沖縄に住むことすら厳しい時代があったということでした。その後,その人は徳之島に戻り「奄美はウチナンチュではなく奄美ンチュウだった」と痛感したそうです。

※  反対派の主張については,奄美新聞,南海日日新聞の記事を参考にしました。

「大和めきたる名字の禁止」通達について

・ 金見崎海岸

 沖縄では薩摩の侵攻以降,苗字に漢字が充てられるようになりました。また,1624年には「大和めきたる名字の禁止」という薩摩藩の通達で地名や日本風の姓は改められ,三字姓などに変更されました。これは,秀吉の朝鮮出兵により対中関係が悪化し交易が出来なかったため,琉球を通した中国交易を行う上で,意図的に琉球の日本支配を表に出さない薩摩の狙いがあったと言われています。

 江戸時代の統治下の奄美には農民しかいませんので(一部郷士格を除く),本土の武士以外の階級と同じように姓はありません。しかし,後の奄美の「一字姓」は本土と異なる多くの差別を生みました。これがこの政策の薩摩藩の一番のねらいでもあり,戦後まで色濃く残ったのです。

※ 後に大島勤務の藩役人たちが島妻との間に生まれた子どもの氏名の問題については,別の機会に紹介します。昭和後期まで鹿児島から奄美に赴任してきた先生たちの一部に,一字姓を笑っていた例が数多く存在しました。(ここでは例はあげませんが,実際私も聞いたことがあります)

・首里之衆一統を祀る亀徳の秋津神社

「奄美群島の時代区分」伊仙町歴史民俗資料館の資料より

(1) あまみゆ(奄美世) 「古代」 徳之島に人が住みつくようになった時代から,遣唐使の航路として,太宰府の直轄下において交流が図られた時代。これ以降,琉球王朝の支配を受けるまでの600年余りの間。
(2) あじゆ(按司世) 「中世」 奄美で按司 (小豪族)が活躍した時代で,11・12世紀頃(平安末から鎌倉時代)が最も按司が活躍した時代と言われている。徳之島の交易圏としてカムィヤキを供給する時代。※1306年,千竃文書(姫熊に徳之島を譲る)
(3) なはゆ(那覇世) 「琉球王朝の支配下に」 1429年に琉球の統一を成し遂げた琉球第4王統の時代には,実質的な支配を受けたと考えられている。徳之島には1562年,初代大親「首里の主」が着任した。
(4) さつま世(薩摩世) 「薩摩藩の直轄による苦難の時代へ」 1609年,薩摩藩による琉球出兵。藩兵3000余名,船100隻の琉球派遣軍が山川港を出発。琉球は実質的薩摩藩の支配下に,奄美五島は薩摩藩の直轄下となる。
(5) やまとゆ(大和世) 「維新の改革も島には数年遅れて普及」 1867年(慶応3年)大政奉還で徳川幕府の支配が終わる。明治新政府の改革政策が奄美群島に及ぶのは数年後の明治8年,亀津に大島支庁が置かれてからのこと。
(6) あめりかゆ(アメリカ世) 「戦後日本から行政分離 米軍統治に」 1945年8月15日,ポツダム宣言の受諾により太平洋戦争は終結した。「二・二宣言」によって,北緯30度以南の奄美群島は島々は日本国から切り離され,米軍行政府の統治下に入る。
(7) 復帰後の徳之島 「復興への力強い歩みが,かつてない発展へ(奄振)」 1953年12月,本土復帰を果たし奄美群島は日本行政下に返還される。徳之島は亀津町,東天城村,天城村,伊仙村の1町3村として再び県政下に加わる。



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