琉球国って本当に独立国なの
沖縄について調べていると,「琉球国独立論」という驚くべき検索ワードが目に入ってきました。日本語を話す日本人が独立を求めるというのは違和感がありますが,これは地位協定を含め基地問題などに対する政府への不満から生じた声なのでしょう。しかし,見出しは大きく取り上げられていても,実際に支持する勢力は数パーセントに過ぎず,民意を反映しているわけではないようです。
一部では,県外から入り込んだ極左集団がこの問題を政治化し,マスコミなどで取り上げられているとの見解もありますが,この見方も一面的かもしれません。しかし,こういう言い方をすると,「沖縄のことを理解していないから表面的なことしか言えないのだ」と言われてしまうかもしれませんね。
この独立論は,沖縄がかつて琉球王国として存在していたが薩摩に征服されたため,元に戻して独立すべきだという極端な意見です。世界の歴史を振り返ると,民族や言語,宗教,経済などを理由に独立戦争を経て自由を勝ち取った国々も多く存在しています。
そこで,「琉球方言の言語学上の研究」や「琉球国による奄美征伐」(千竃文書における奄美の位置づけ),「中国との冊封関係の事情」,「黒潮の流れによる自然の国境」などを踏まえて,個人的な意見を述べたいと思います。
※ 黒潮の速い流れ(最大流速は時速7㎞以上)が障壁となり,近隣諸国から攻められることが少なかったため,八重山列島(台湾から110キロ)や対馬(韓国から50キロ)などは日本本土よりはるかに近いにもかかわらず,日本領であり続けました。
「那覇世(なはんゆ)」
一方,奄美諸島には「那覇世(なはんゆ)」という,琉球に侵攻され征服された歴史があります。沖縄県における「薩摩による琉球侵攻」は公式の歴史として刻まれていますが,「琉球による奄美侵略」の歴史については同様の扱いがなされていません。そればかりか「奄美併合(侵攻)は同じ琉球文化圏だから問題ない」と正当化する人すらいますが,奄美の歴史からすれば,征服されたことは紛れもない事実なのです。また,同じ沖縄県に属する先島諸島(八重山列島)も,かつては自由に暮らしていたのに,琉球によって征服されたのです。歴史はやられたことばかりでなく,(自分たちに都合の悪い)やったことも正しく記さなければなりません。
独立の根拠
では,琉球が独立していたという根拠は何でしょうか。琉球王国(正式には琉球国)が成立する以前から,琉球は朝廷に貢物を献上し関係を持っていた歴史があります。日本にとっても南西諸島は中国との交易上,重要な海上交通の要衝地でした。当時の政権も様々なアプローチを試み,決して手をこまねいていたわけではありませんでした。
仮に蝦夷など有力豪族によって東北地方で反乱が起こった場合,朝廷はそれを鎮めたでしょう。しかし,北海道に渡り独立運動が起こった場合,当時は対応が難しかったはずです。ましてや,流れの速い黒潮に隔たれた奄美や琉球諸島では,黙認するしかなかったのです。
ところで,琉球が独立していたという最大の根拠として,中国との冊封関係が挙げられます。朝廷も無用なトラブルを避けていたのでしょう。領土拡張にやっきだった戦国大名が,江戸期の平和な時代に入り,幕府の許可を得て,堰を切ったように薩摩軍が奄美・琉球に押し寄せました。これ以降,奄美列島は直轄化され沖縄より大変な思いをしたのです。前述の薩摩侵攻前に戻して独立したい人たちは,奄美群島の扱いはどのように考えているのでしょうね。
朝貢貿易
朝貢貿易とは,明の皇帝に貢ぎ物を送り,その返礼品を受け取る貿易形式です。琉球国は明国からの返礼品が多大であったため,莫大な富を得ていました。当時の明は大宰府に対して倭寇禁止と朝貢を要求しており,倭寇にかなり悩まされていたことが分かります。14世紀半ばの琉球においても,北山・中山・南山の三山がそれぞれ国として明と朝貢貿易を行い,貿易国家として発展していました。
この時代,明国は琉球国の三山(北山・中山・南山)をそれぞれ朝貢国と認めていたと言うより,倭寇対策の一環として明が認めた公式な交易の相手程度の意味合いだったのでしょう。1429年,北山王が征服されて琉球国が統一されたことを,明国はしばらく知らなかったほど,国家間の交易は厳格ではなかったようです。(冊封関係上の義務を有していた)
そもそも,ヤマト政権の倭の五王の時代から中国への朝貢を行っていました。その一人,武(ワカタケル大王=雄略天皇)は,478年に中国に朝貢し,宋から「安東大将軍」に任命されています。
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