ウチナーグチ(琉球方言)を話すウチナンチュー(DNAゲノム解析で日本人)は,かつて琉球国を築いていました。琉球国が存在していた背景には,いくつかの歴史的・地理的要因があります。
まず,琉球国は中世まで黒潮で隔たれた南西諸島に位置しており,これにより朝廷(大宰府)や幕府の影響が及びにくかったことが挙げられます。この地理的隔離は琉球が独自の文化と政治体制を築き上げ独特の社会が形成されたのです。
また,時代によっては琉球が中国との交易関係を重視したこともありました。琉球は中継貿易の拠点として栄え,中国との交易が経済的にも重要でした。このため,琉球は中国との良好な関係を維持するため,日本への併合を避ける外交的な事情もありました。
沖縄方言の3母音
山田実氏によると,古代日本語と琉球語が分岐したのは4~6世紀頃であり,それ以来琉球語は独自の発展を遂げてきたようです。古代日本語の方言は,東部日本語,西部日本語,そして古代琉球語(南西諸島)の三つに大別されていました(現在は他の分類法が主流です)。
奈良時代の本土の古代日本語と古代琉球語(奄美・与論方言を含む)の比較研究は,当時としては珍しいもので,音韻と語尾が「ク」になる「ク語法(琉球語)」や連体形に「アク」を複合させた「アク説」など様々な調査研究を通じて行われました。この研究では,基本的な単母音が五母音から三母音に変化していく過程も説明されています。
・日琉語比較文法(山田實)
奈良時代の日本語では,母音が二つ連続することを避ける発音習慣がありました。このため,母音が連続すると一方が脱落したり,イ・アがエに変化したりして融合し,新たな母音が生まれる現象が見られました。日本語の五母音(ア・イ・ウ・エ・オ)は,沖縄方言ではア・イ・ウ・イ・ウ(三母音)となり,「エ」が「イ」に「オ」が「ウ」に変化し,結果的に3母音になる傾向があります。例えば,「ウチナンチュー(沖縄人)」という言葉は,オキナワがウチナワに変化した言い方です。この現象は東北の方言の一部でも見られ,柳田國男の方言周圏論を支持するものです。沖縄方言の原型は奈良時代に大和で使われていた言葉とされています。
国の定義
ところで,国の定義とは何でしょうか。「国家の権利及び義務に関する条約」によれば,「①国民」「②領土」「③政府」「④他の国家と関係を結ぶ能力」の四つの要素を具備することです。これらの条件を満たすことで国家であるとされます。しかし,台湾は外交関係を持つ国があるにもかかわらず,「他の国家と関係を結ぶ能力」(➊中国が認めていない)が制約されているため,「未承認国家」(日本も含む)と呼ばれることがあります。しかし前述の条約からすると国の定義を満たしていることは明らかですが,実際の国際的な承認などは,時にずれが生じることがあります。
千竃文書
鎌倉後期の千竃文書には,実行支配は別として奄美列島の交易権の相続について記載されています。つまり,14世紀初頭の奄美諸島の領有に関しては得宗家の関与「離島を含む川辺郡が北条得宗家領」があり,❷時の朝廷や幕府は「琉球国の独立」を含む「奄美征伐」についても承認していませんでした。また島津氏にとっても,南薩・奄美が中国との交易路(交易権)上,重要な地域であったのです。
室町幕府に近い寺院の外交僧たちによって,琉球による反乱の扱いが検討されていましたが,征討軍を送ることはできず,最終的には幕府側の黙認で終わったのです。奄美を征服し,朝廷に対して宣言もせずに,明国との冊封関係を持って独立国であると主張するのは少し無理があるようです。この頃,島津氏も室町幕府から薩摩から琉球へ渡る船舶権を得ていました。14世紀半ばには北山・中山・南山がそれぞれ国家として明国と朝貢貿易を行っていたこともあり,冊封関係といっても,勘合貿易以前とそれ以降では事情が異なり比較的自由に行えるようになっていました。
征夷大将軍(蝦夷討伐)
独立国家といえば,奈良時代から平安時代にかけて,朝廷に従わなかった東北地方の蝦夷(えみし)を思い浮かべます。彼らは朝廷の貴族たちからは異民族のように見られていましたが,実際には同じ日本人でした。東北地方に住み,朝廷から遠く離れていたために従わず,蝦夷と呼ばれ,半独立国家のような状態でした。
朝廷に従わず抵抗を続ける蝦夷を服従させるため,朝廷は東北地方に軍を送り鎮圧を進めました。平安時代には,天皇が坂上田村麻呂を蝦夷討伐(征夷大将軍)として送り込み,蝦夷の指導者である阿弖流為(アテルイ)を降伏させ,蝦夷を制圧しました。これにより,東北地方全域の蝦夷をほぼ服従させ,朝廷の支配下に置きました。当時は国の定義において国防・軍事力が第一に重要視されていたのです。なお,蝦夷とは,奈良時代や平安時代に朝廷に従わなかった東北地方の人々を指します。
中世は弱肉強食の時代であり,九州では島津氏が九州制覇を目指して各地で無慈悲な戦いを繰り広げていました。江戸初期の薩摩による琉球侵攻も突然起こったわけではなく,室町期からの流れの一環として避けられなかった出来事であり,幕府の許可を得た行動でした。秀吉や家康の時代には全国平定が進められましたが,薩摩の琉球征伐まで,黒潮に囲まれてた琉球・奄美諸島は,独自の文化圏を築き上げていました。琉球の扱いについては室町期から議論されていましたが,秀吉の時代に至っては朝鮮出兵の費用を琉球にも命じるなど,本気度が強まっていきました。
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