海南小記と海上の道

民俗学とは

 前回,「宮沢賢治と柳田国男」について投稿しました。今回は柳田国男の著者の中から「南海小記」を取り上げます。歴史学や言語学の研究において,あるいは統計学的に見ても,フィールドワークが極めて重要な役割を果たしていることは異論がないと思います。歴史研究の基本は,書籍や史料を根拠として検証を積み重ねていくことにあるのでしょう。しかし一方で,実際にその土地を訪れ,目の前に広がる景色を眺めて観察し,その地に残る風土記や郷土史をひもとき,さらには地域の郷土史家や住民の方々から話をうかがうことで,文献だけでは見えてこない側面が浮かび上がってくることも少なくありません。

・ウィキペディアより

 方言研究もまた同様です。私は父の転勤の関係で,離島をはじめ県内各地を移り住んできました。そのため,一つの土地の方言を十分に使いこなせず,どこか引け目のような思いを抱いてきました。しかし,生きた方言には辞書や記録だけでは捉えきれない言葉のニュアンスが確かにあります。日常の会話の中に自然に息づく言葉の響きや使い方は,その土地で暮らす人々の語りに耳を傾けてこそ,はじめて実感を伴って理解できるものです。

 かつて,柳田国男が全国各地を歩きながら民俗や言葉を調査していた時代には,各地に固有の言葉や生活文化がまだ豊かに残っていました。しかし現在では,方言を日常的に使いこなす世代が少なくなり,生きた言葉に触れる機会そのものが失われています。

 民俗学の必要性が広く認識され,学問として確立していくのも明治以降のことでした。それまでの武家社会では,庶民の日常の暮らしに目を向けることもなかったのでしょう。柳田は九州から南西諸島を巡る旅「海南小記」の中でその重要性に気づき,土地に生きる人々の思いや生活の姿を,市井の人々の言葉として私たちに伝えてくれました。

 地域に残る方言を調べてみると,そこから文化や交流の痕跡が見えてくることもあります。地元で使う言葉の由来を考えると,遠く離れた地域との文化的なつながりを想像させます。新しい言葉や文化は,人から人へ,村から村へと急いで伝えられてきました。方言の中には,そのような交流の記憶が静かに刻まれているように思われます。

 このような状況のなかで,私たちはこれからどのような方法によって,地域に根ざした歴史や言葉を記録し,理解していけばよいのでしょうか。フィールドワークの重要性は変わらない一方で,その実践の在り方には,時代に応じた新たな工夫が求められているように思われます。

「柳田国男『海南小記』の旅」

 私が柳田国男の方言周圏論を初めて知ったとき,大きな衝撃を受けました。それまで私は,鹿児島は中央から遠く離れた土地であり,言葉もどこか「田舎臭いもの」として引け目を感じていたからです。しかし,柳田の考えはその見方をまったく逆転させるものでした。

 柳田によれば,日本の方言は単なる「標準語の崩れ」ではありません。むしろ,古い大和の言葉が地方に残っていると考えるべきものです。たとえば,古代から連なるような古い言葉の要素が,日本列島の各地に今も残っている可能性があるのです。九州や東北,奄美,沖縄に残る方言は,言語の歴史を知るうえで貴重な手がかりをもつ「宝庫」なのです。鹿児島の言葉もまた,その長い歴史を内に秘め,生活の中で脈々と受け継がれてきたものなのだと気づかされました。

 このことは,言葉だけでなく地名についても同じことがいえるでしょう。古い言葉の痕跡は,地名の中にも数多く残されています。地名をたどることは,その土地の歴史や人々の生活をたどることにもつながるのです。

 さらに興味深いのは,柳田が早くから沖縄に注目していた点です。日本文化や日本語の成り立ちを考えるうえで,南の島々の文化や言語は重要な意味をもつと考えたからです。のちに柳田は,南の島々を結ぶ文化の伝播の道として「海上の道」という考えを示しました。しかし,その発想の萌芽は,すでに若き日の紀行文である「海南小記」に見ることができます。

 『海南小記』は,柳田が南九州を旅した記録です。そこには,土地の言葉や地名,自然や人々の暮らしに対する鋭い観察が記されています。後年の「海上の道」論よりも四十年以上も前に,すでに南の地域への関心が芽生えていたことがうかがえます。

 この紀行文を読みながら旅の跡をたどるとき,鹿児島という土地が日本文化の周縁ではなく,むしろ古い日本を今に伝える重要な場所であることに気づかされます。柳田の旅は,南の地を歩きながら日本の成り立ちを考える旅でもあったのです。

椰子の実

 「椰子の実」は「日本の歌百選」にも選ばれ,広く国民に愛唱されている叙情歌です。この歌は,柳田国男が学生時代に体験した出来事をもとに,島崎藤村が作詞したことで知られています。

 柳田は若い頃,愛知県の伊良湖岬(渥美半島)を散歩していた際,南の海から流れ着いた椰子の実を見つけました。その印象的な体験が,歌詞の「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ」という有名な一節として知られています。

 黒潮にのってはるかな路を越えてこの浜辺まで椰子の実が漂着したことに大きな驚きを覚えたと記しています。この小さな出来事は,後に柳田の思索の重要な出発点となりました。海によって結ばれた文化や言葉の広がりについて深く考える契機となったのです。

 柳田の著作である「海南小記」(1920年)と「海上の道」(1961年)は,日本の民俗学における南島研究の重要な作品です。特に「海南小記」は,後年の著作へとつながる思索の端緒となった紀行文であり,柳田民俗学の形成過程を知るうえで欠かせない作品なのです。 

 『海南小記』は,大正9年12月から翌年3月にかけて,神戸を出発し,大分,都井岬,佐多岬を経て南下し,その後,奄美大島や那覇に上陸し,さらに宮古島や石垣島にも滞在した旅の記録です。旅の途中で出会った人々の暮らしや文化が,細やかな観察とともに記されています。

 この作品には,柳田が沖縄に関心を持つに至った経緯や,南島研究の出発点が示されています。そして約四十年後に著された『海上の道』では,椰子の実や宝貝の伝承などを手がかりに,日本人の祖先が南の海を渡ってきた可能性についての仮説が提示されました。

 こうして見ると,『海南小記』は単なる旅の記録ではありません。のちに展開される「海上の道」という大きな構想へとつながる,柳田国男の思索の出発点であったと言えるでしょう。

枕崎に残る豆腐の方言「おかべ」

 海南小記によると,柳田国男は,ダグリ岬から鹿児島へ入っています。「だぐり」とは,この地にあった夏井番所で荷の検査と積み荷を薩摩の馬に積み替える「荷駄繰り」が行われていたことに由来するそうです。

・ダグリ岬遊園地と夏井海岸

 柳田の紀行文『海南小記』を読むと,その言葉どおり,彼が南九州を急ぐように旅した様子が伝わってきます。まるで,京の都から地方へと方言が広がっていく速さを追いかけるかのような旅でした。

 柳田はこの旅の中で,言葉や文化がどのように広がっていくのかという感覚を鋭くとらえました。後に「方言周圏論」と呼ばれる考え方の源には,こうした実地の体験があったといえるでしょう。言葉や文化は,まるで次の村へと急ぐかのように伝わっていきます。当時の人々には,「新しいものを早く伝えたい」という,どこか競い合うような気持ちがあったのではないでしょうか。柳田はその心の動きを見事に感じ取りました。

 しかし,このような視点に多くの日本人が気づくまでには,長い時間がかかりました。当時の人々にとっては,言葉の広がりを学問として考える余裕などなかったからです。柳田は九州から南西諸島を巡る旅の中で,その仕組みに気づき,人々の思いを私たちに伝えてくれました。

 新しい言葉や文化は,「次の町へ知らせたい」という気持ちとともに広がっていきます。早く知ってほしいという思いが,伝播を早めるのです。柳田は,そうした人間の自然な心の働きに気づいていました。

 その一例として,鹿児島県枕崎に残る豆腐の方言「おかべ」があります。地元では,この言葉は京言葉に由来すると言われています。豆腐は中国で生まれ,日本には奈良時代から平安時代にかけて,仏教とともに遣唐使の僧侶によって伝えられました。当初は僧侶や貴族など限られた人々が口にする貴重な食べ物で,精進料理として食べられていたのです。

 やがて豆腐が庶民にも広まると,その白い姿から「御壁(おかべ)」という呼び名が生まれたと伝えられています。京都の御所の白い壁のような食べ物だという印象から,とっさにそう呼ばれたという説です。初めて食べた人々は,そのおいしさに驚き,「これは何という食べ物か」と尋ねたのでしょう。そのときに生まれた呼び名が「おかべ」だったと言うものです。

 この言葉が枕崎に残ったのは,地理的な事情も関係していると考えられます。山川や坊津のように奄美・沖縄と交易する港とは異なり,枕崎は当時,いわば南端の町でした。新しい言葉である「豆腐」が後から伝わってきても,さらに南へ伝える場所がなかったため,更新出来ずに古い呼び名の「おかべ」がそのまま残ったのでしょう。

 この例は,言葉や文化が人から人へ伝わっていく性質をよく示しています。良いもの,新しいものは,誰かに知らせたいという気持ちとともに広がっていくのです。それは,現代でも変わりません。若者たちが魅力を感じた文化や言葉が,瞬く間に広まっていく様子とどこか似ているように思われます。

「佐多に行く路」~柳田国男の海南小記より抜粋~

 串間から志布志に入る。「クシ」は岬を意味する古語である。入海を隔てて志布志の蒲葵(びろう)島が美しく,その向こうには大隅の山々が見える。大隅の「スミ」も,もとは「シマ」を指す語ではないかと考えられる。  
 佐多に行く路
 島泊の漁村は川尻に集まっている。伊座敷からこの島泊までは,かつて山の八合目まで登って越える道があったという。この山道を切り開いたのが豊後から来た炭焼きの人だったと聞いたとき,どこか昔話を聞くような嬉しさを覚えた。
 九州もここまで来ると,まさしく国の端という感じが強い。坂も多いが曲がり角も多く,樹木の間からは海がのぞき,風が少しずつ吹き抜けている。  
 尾波瀬から放牧地を通って草山を十町ほど進むと外海の浜に出ると中央の山路と合流する。この地は大泊と呼ばれ,かつて種子島へ渡る船の船着き場であった。松飾りをした帆船がつながれている。帰りに見ると,赤い国旗を掲げた小学校(大泊小学校)でも式の準備が整えられていた。
 岬の端までは一里半ほどある。灯台に勤める人たちの子どもは,ここまで通って来なければならない。途中には田尻の集落があるが,分教場さえ置かれていない。
 田尻は広々とした石の多い浜である。名のとおり峠道の左右にはわずかな水田があり,村人はそこへ登って耕している。村の周囲にはソテツが多い。これが自然に繁殖しているのを見ると,御崎神社を信仰する樺山権左衛門久高(琉球侵攻時の総大将)が琉球から凱旋の折に持ち帰り奉納したのが始まりだという伝説は,にわかには信じがたい。
 佐多の灯台から眺める景色は雄大である。静かな日には二十五海里の海峡の迅潮(はやしお)を越え,種子・屋久の磯の鳥が岬の岩にまで飛んできて漁る姿が見える。この岬に立つと,南の島々が一列に並ぶ飛び石のように続いていることがよく分かる。黒島でも竹島でも硫黄島でも,ここ佐多の岬の端から望めば,薩摩の山々を振り返るよりもなお親しみ深く感じられる。島へ渡れば,次の島もまた同じように近しく思われるのだろう。
 御崎の山にはソテツと蒲葵(びろう)が多く,いずれも実を熟している。親木の陰から離れた場所にも広く繁殖しているのは,鳥が種を運ぶためであろう。笠や箒に使う葉(くば笠・くば箒)は,灯台近くの小島から採っているという。

・大根占港から佐多岬まで工程

くば笠くば箒

 枇榔は別名蒲葵(ほき)あるいはコバとも呼ばれる。コバ笠やコバ箒の「コバ」は,沖縄で「クバ」と転じている同じ語である。(『海南小記』より)

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