介護が身近なものに
先日,テレビで介護の場面が描かれているドラマを見ました。近年では,ドラマや小説を通じて介護の実態が広く知られるようになり,ラジオの人生相談や公的機関においても気軽に相談できる環境が整ってきました。とりわけ,SNSを活用した相談の場が充実しており,一人で悩みを抱え込む状況は以前に比べて非常に少なくなってきているように感じられます。
実際の介護施設でも,ケアマネジャーをはじめとする専門職の方々が多く在籍しており,適切な助言を受けられるようになりました。これらの専門職の職員は,症状の個人差を含む様々なケースを熟知しておられ,その対応は的確で信頼に足るものです。また,親切で話しやすい雰囲気があり,どのような悩みであっても安心して相談することができます。その存在は,介護に携わる人々にとって大きな支えとなっているようです。
| 父は定年退職後もなお教育への情熱を失うことなく,私立高校で五年間,教壇に立ち続けていました。しかし,その授業中に倒れ,軽い脳梗塞を発症したのです。 その後,父は新たに個人で学習塾を立ち上げ,約10年間にわたり経営を続けました。講師を4,5名雇うほどの規模へと発展し,小学生から中学生まで5~60名の生徒が在籍するまでになっていました。日々の指導は講師の方々に任せ,父自身は送迎や雑務,清掃など塾を支える裏方の仕事をしていました。 (今でも講師だった方が塾の経営を引き継いでいます) ところが,その作業の最中に父は二度目の脳梗塞を発症し,左半身に後遺症が残りました。それでも父は,治療とリハビリに懸命に取り組んでいました。しかし,入院中のリハビリの際に倒れて頭部を強く打ち,その結果,硬膜下血腫を発症してしまいました。 その後,父は寝たきりの状態となり,認知症も急速に進行いたしました。手術を重ねるたびに症状はさらに深刻さを増していき,やむを得ず専門の病院へ転院することにしました。 現実的には必要とする病院や施設の空きが限られていて,希望する病院を選べないことが多いのです。専門医の有無や設備の充実度などを含め,病院ごとにこれほど大きな差があるという実情を,初めて知りました。 病弱な母が暮らす家のリフォームや専門病院での受け入れ体制なども含めて検討を重ね,私たちは父を自宅で受け入れることにしました。そして,裏玄関にはリフトを設置し,トイレや浴室の扉をはじめ各所に介護しやすく,これまでの古い家を新築することにしました。 |

父の介護
二十年以上前,父の介護を自宅で行っていた当時は,現在とは状況が大きく異なっていました。私は教頭として最も多忙な時期であり,日々さまざまな業務に追われていました。さらに,子どもたちの大学受験とも重なり,心身ともに追い詰められていったことを覚えています。父の声が頭の中で繰り返し響くこともあり,今振り返れば,半ばノイローゼのような状態であったと思います。
当時は,介護に対する社会的理解も十分とは言えず,家庭内の問題として抱え込まざるを得ない空気がありました。そのため相談すること自体どこか恥ずかしいとすら考えていて,誰に相談することもなく,一人で思い悩む日々が続いていたのです。
生活も過酷で,睡眠時間は削られ,慢性的な疲労を抱えたまま仕事に向き合う毎日でした。職員会議では教頭が司会を務めるため,何とか気を張っていました,その前に行われる企画委員会では教務主任が進行していたため,気が緩むと強い眠気に襲われることがありました。そこで私は,近くにいた若い先生に「もし眠ってしまったら足で蹴ってほしい」と頼み,会議に臨んだこともありました。

もっとも,実際に父の介護を主に担っていたのは妻でした。平日の日中の介護はすべて妻が引き受け,デイサービスの合間には買い物(まとめ買い)や子どもたちの学校の用事,さらには私の母の世話に至るまで,さまざまなことをこなしていました。
自宅で介護を始めた当初は,手を動かしながら何とか意思疎通もできていたのですが,認知症の進行とともにその様子は徐々に変化していきました。朝夕になると,「蛇がいる」「亡くなった人がそこにいる」といった幻覚を訴えることが増え,睡眠のリズムも次第に乱れていきました。
そのような不安定な状態が続く一方で,日によっては落ち着いていることもありました。そのようなときは,「故郷に帰りたい」と呟くこともありました。昔の記憶が蘇っているように感じられました。

私の帰宅は夜の9時を過ぎることが多く,その頃には父はすでに就寝していて,平日に介護に関わることはほとんどありませんでした。ただ,夜中に父が大声で叫ぶことが多く,そのたびに目を覚ますため,睡眠不足が続いたことが何よりつらいことでした。
あるとき妻が,これまでは「死にたい」と言っていた父が,幻覚が続くようになると最近は「殺してくれ」と言うようになったと打ち明けてくれました。それを聞いた私は,思わず父に向かって強い口調で注意してしまいました。その声は,おそらく子どもたちにも聞こえていたことでしょう。当時の我が家には,どこか張り詰めた,異様ともいえる空気が漂っていました。
もちろん父にとっても,思うように身体が動かず,身の回りのこと,とりわけ下の世話まで人に委ねなければならない状況は,耐えがたい苦痛であったに違いありません。そうした思いが,あの言葉となって表れたのだと,今では受け止めることができます。

ある職員からの相談
そのような折,職場のある女性の先生から,「教頭先生も介護をなさっているのですか」と声をかけられたことがありました。普段は物静かで,どちらかといえば口数の少ない先生でした。私が少し話を振ると,その先生は自身の介護について語り始めました。それまで胸の内にため込んでいた思いが,一気にあふれ出たかのようでした。
その先生も,ご主人の母の介護を担っており,「仕事と介護の両立には限界があります。夫婦で相談して,子どもの教育のことも考えると,私が仕事を辞めるかもしれません」と,介護の苦労を打ち明けられました。平日は主に施設での介護を利用しながらも,週末は自宅で介護を担っているとのことで,その言葉の一つ一つに切実な実感がこもっていました。わたしは「今辞めても解決はしない気がします。旦那さんと一緒にケアマネジャーに相談してみては如何ですか」とかつて利用した専門の施設を紹介すると,どこかホッとした表情をしていました。

介護が終わった安堵感
父が亡くなった時のことは,今でもはっきりと記憶に残っています。かかりつけの病院での対応が難しくなり,すぐに総合病院へ転院することとなりました。入院後しばらくして,父は胆管癌の組織から出血が続くようになり,毎日のように輸血を行わなければならない状態となっていました。意識も回復せず危篤の状態が続いていて,状況は次第に深刻さを増していました。
そうした中で,医師から「延命処置を続けますか」と幾度となく問われていました。そのたびに,「殺してくれ」という父の言葉が脳裏に浮かびました。私は母や弟,親戚とともに何度も話し合いを重ねましたが,容易に結論を出せる問題ではなく,何度も迷い,考え続ける日々でした。そして,熟慮の末,最終的には無理な延命は行わず,自然の経過に委ねるという結論になりました。

「いよいよ危ない」と妻から連絡を受け,私は急いで病院へ向かいました。病室に入ると,父の呼吸はすでにか細く,血圧も危険な状態が続いていました。医師からは「夕方までが山でしょう」と告げられ,いよいよその時が近づいていることを知りました。
私は,これまで献身的に父を支えてくれた妻に,ぜひ最期を見届けてほしいと考えていました。しかしそのとき,母は妻を伴って担当医の説明を聞きに行こうとしました。私が「もうわずかしか時間がないからそばにいて」と伝えても,母は聞き入れようとはしませんでした。夫の死をすぐには受け入れられず,「まだ大丈夫なはずだ」と信じていたかったのだと思います。
その気持ちは理解できましたが,結局一人で父のそばに残り,最期の瞬間に立ち会うことになってしまいました。父はここ数日が山場だと告げられてはいたものの,それまでも幾度となく危機を乗り越えてきました。そのため,どこかで「今回もきっと大丈夫だろう」という思いを拭いきれずにいました。
しかし,その時は突然訪れました。か細く続いていた呼吸が,ある瞬間,深く大きく吸い込むように変わったのです。そして最後に2,3度大きく息を吸いゆっくりと吐き出したまま,父は静かに息を引き取りました。同時にそばにあった心電図モニターが「ピー」という音を発し,表示はゼロのまま動かなくなりました。

数分後,母と妻が病室に戻ってきました。父の最期の瞬間は,静かで,あまりにもあっけないものでした。その光景は,今でも深く刻まれています。ただ父も私たちも長く続いた介護から解放されたことへの,どこか安堵にも似た複雑な思いがあったのかもしれません。母は涙を流していましたが,私と妻は不思議なほど涙が出ませんでした。
介護の経験での後悔

父が亡くなった後,医学書を読んで初めて知ったことがありました。人は亡くなる直前,たとえ意識がないように見えても,頭の中では幻覚が現れたり,周囲の人の声が届いていたりすることがあるというのです。特に耳は最後までよく聞こえていることが多く,手を取り,声をかけて寄り添うことが,最期にしてあげられる大切な関わり方だと記されていました。家族はその時間,「最後のお迎え」に立ち会い,ともに過ごす存在なのだと知りました。
しかし当時の私は,そのことを十分に理解しておらず,父にかけた言葉も,ごくわずかなものだったように思います。そのことが,今もなお心に悔いとして残っています。
長年連れ添ってきた母や,献身的に介護を続けてくれた妻に対して,父自身もきっと感謝の思いを伝えたかったのではないかと思いました。
最期のひとときにその場にいたのに,もう少し言葉をかけ,手を握り,寄り添うことができていたならと,今でも思い返すたびに,後悔の念がよぎります。大切な人の最期に,自分には何ができるのか。その問いを,常に考えておく年齢になってきました。
子どもたちにとっての介護

話は前後しますが,子どもたちには落ち着いて勉強もできない環境を強いてしまい,不安な思いをさせていることに,私は申し訳なさを感じていました。長女が自宅にいるとき,妻が買い物の間などに父のそばにいてくれることがありました。しかし,思考が混乱していた父は,孫に対しても「殺してくれ」と口にしてしまったようです。
あるとき,私は子どもたちを強く怒鳴ってしまったことがあります。父が夜中に何度も大声で呼ぶ日が続き,家族全体が疲れ切っていたのです。受験を控えた子どもたちも思うように勉強ができず,苛立ちが募っていたように感じたからでした。子どもたちの気持ちを十分に聞いた訳でもなく,私自身の感情が先に立っていたのだと思います。
そのとき妻が二階に駆け上がってきて事情を聞き,暫くして私に一枚の新聞の切り抜きを持ってきました。それは,長女が地元紙の「若い目」というコーナーに投稿していた文章でした。
長女の投稿
| 最近,あなたは高齢者の手助けをしただろうか。今日の日本は,高齢化社会となっている。そして 高齢者の中には,介護の手を必要とする方もいる。 私の祖父は我が家で母に介護されながら生活している。2年前,元気だった祖父は,脳の病気で入院し,今現在軽い認知症があり,立つことができないという状況にある。週に2,3日デイサービスを受け,リハビリするが,それ以外に祖父の世界は,食事をするリビングと車椅子,そしてベッドの上しかない。私は母から祖父の様子をよく聞く。そしてある日祖父が死にたいと言っていることを知った。その時,私は驚いたが,どこか人ごとだと思っていた。 しかし,数週間後,私と祖父と二人きりになったときにそう言われた。私はショックだった。そんな 祖父を説得するのはつらかった。それを毎日している母はすごいな,と改めて思った。 これはあくまでほんの一例で,全てが同じではないが,もし介護を知らない人たちがいたら,こういった精神的な問題があることも知ってほしい。介護する側とされる側がお互いに思いやれるような介護生活が多くなればいいなと,私は切実に思う。 |
この文章は,「高齢者の手助けをしたことがあるか」という問いかけから始まっていました。娘は,高齢化が進む社会の現実を,自分の家庭の中での体験を通して見つめていたようです。そこには,祖父である父の姿が記されていました。かつては元気だった父が病を経て身体の自由を失い,日々の生活の多くをベッドや車椅子の上で過ごしていること。デイサービスに通いながらも,限られた生活の中にいること。そして何より,「死にたい」と口にするようになったことが,率直な言葉で綴られていました。

娘は「死にたい」という言葉を最初は弱気になっていた祖父の気持ちの現れとして受け止めていたものの,ある日,祖父と二人きりになったときに同じ言葉を直接告げられ,大きな衝撃を受けたようです。励まそうとしても,どう言葉をかければよいのかわからない,その戸惑いも正直に書かれています。
それでも,日々その言葉と向き合い続けている母の姿を考えると,その大変さと強さを改めて実感したようです。そして,介護には身体的な負担だけでなく,精神的な重さがあることを多くの人に知ってほしいという願いが込められていたのだろうと思いました。
介護する側とされる側が,互いに思いやりを持ちながら,少しでも穏やかな時間を過ごせるように,そんな切実な思いで締めくくられていました。

その文章を読み終えたとき,子どもたちに感情で大声を上げたことを後悔し,家族の中で起きている出来事を,これまでとは異なる視点から見つめ直すことになりました。介護とは単に支えることではなく,人と人との関係や心のあり方を,深く映し出す営みなのだと,あらためて教えてもらったのです。
