獅子島の伝説「獅子谷七郎と阿沙良姫」【R5】8月3号

◎ 戦国時代の天草は,「天草八人衆」という同族の武将たちが支配していた比較的平和な時代であった。九州各地の大名勢力が天草にも及んでくると獅子島では,獅子谷但馬守(七郎とは別)が志岐氏と同盟関係を持ち,隣の大宮地,針尾城の宮地氏と敵対するようになる。宮地氏は「吾に利あらず」と針尾城をすてて長島に渡り,天草が見える断崖絶壁の要塞で再起をうかがうことにした所が第二の針尾城と命名した針尾公園に当たる。 このとき,宮地氏は,武器を三船湾から更に山奥に運び隠した。そこに倉庫を建てて弓矢などの兵器を収めたところを「矢堂」といっていた。やがて宮地氏や久玉氏などが滅び,長島氏も天草氏に降りるなど,天草が五人衆に吸収される時代になってきた頃の話である。

・絵:富永章子(阿久根市在住)

獅子谷七郎(33)と阿沙良姫(27) 

 このような中,出水の薩州島津家が虎視眈々と長島を狙っていた。1565年8月,野田城主島津忠兼が長島の堂崎城の天草越前正を陥れた。この時,天草氏と敵対していた志岐氏や栖本氏も海から忠兼を援護したのだ。その余勢で,獅子島を襲い片側湾に上陸したのだ。

 獅子谷七郎は,城平丘城(片側の診療所前の山腹の丘に高見櫓と平屋陣営の簡単な山城)を構え,大将として戦うことになった。相良氏が島津防衛のために派遣した300名の兵と共に,山城より弓矢や石などを以て応戦した。

 しかし,わずかな人数で大勢の島津軍勢に勝ち目がないことを悟り,腕に覚えのある七郎は,敵将の忠兼とは言わずとも,せめて名のある重臣と一騎打ちで一矢報いたいと思っていた。「われこそは獅子谷七郎なり。誰かお手合わせ願いたい。」と叫んだが,怒濤の如く押し寄せる島津軍に聞こえる筈もなく,家臣の説得により尾根伝いに山頂まで逃れることにした。

 その時,敵の放った一本の流れ矢が当たったのだ。その矢はキジの羽の付いた仮又矢(先が二股に分かれて抜けなくする矢)であった。今でも島津軍が上陸した辺りに仮又という地名が残っている。逃れる際,七郎の妻,阿沙良姫も重傷をおい,下山の途中の阿沙良峠で自殺した。七郎もようやく平野(岡平武夫宅)までたどり着いたがそこで亡くなった。七郎の遺物として,金の采配と名刀一振りがあり戦前まで残されていたそうだ。後に島民の守護神として,獅子谷神社に祀り崇敬している。やがて七郎が逃れた山頂を「七郎嶽」と呼ぶようになった。

 「我は決して負けていなかった。ただキジの羽の付いた征矢一本で死ぬ。永遠にこれを恨む。今後この島にキジの住むことを許さない。」との遺言により,獅子島にはキジが住まなくなったと言われている。

 さて,このキジの伝説に隠されていることを,どう解釈すればよいだろうか。獅子島では七郎は肥後の最後の英雄として敵方薩摩の藩政時代を通して言い伝えられている。七郎山の名は江戸期の薩摩藩書「名勝志再撰方」「三国名勝図絵」に「七郎ヶ嶽」と見ることができる。七郎を射貫いた矢はキジの羽が付いた矢で,当時は足軽・雑兵が使うもので,一騎打ちどころか,どこからともなく飛んできた矢に射抜かれたのである。

 戦国の世は「同盟と離反」の繰り返しで,兄弟同士で裏切ることもよくあった。また,当時は占領した武士団を戦力として試すため先鋒として使い,忠誠心を見極めることが定めであった。忠兼伝説によると,先に占領した長島氏の残党の多くを新たな家臣として使っている。その雑兵・足軽の中に,七郎の知り合いの家臣がいたことも充分考えら,その者たちが放った矢がキジの仮又矢なのである。この遺言のキジを「自分を裏切り薩摩に寝返った者」と考えると,自分は戦に負けたのでなく裏切りにあったのだ。そのことを恨むと置き換えることも出来るのではないか。七郎はさぞ無念だったであろう。

七郎にまつわる石碑

七郎大社招魂碑(七郎山山頂) ②獅子谷七郎休憩の地(御所ノ浦天道山真光寺横の天道小学校跡地)

 

獅子島の島名由来について

 獅子谷但馬守と獅子谷七郎との関係が分からないが,武将(長男以外)の氏名は地名から名を取って本家から独立する意味合いが強い。そこで島名由来としは獅子島神社由緒にもあるようにカノシシ(鹿が多く住む島)由来の説を採りたい。とすれば,獅子島小中学校の校章は獅子(ライオン)から採ったそうであるが,本来なら鹿であったのか…? 

 また,毛皮としても鹿は大変貴重なものであり,隠れて食していた者も多かったと聞く。鹿が多い島で「シシ島」と言うようになり,中でも片側湾奥の谷沢(片側ダムから七郎山への登山口辺り)は,特に鹿が多く住む谷ということで「シシ谷」と呼んでいたそうだ。その地に城を構えて統治したので「獅子谷」と名乗るようになったと考える方が自然である。その後,獅子島や長島は天草尚種の領土から相良氏の勢力に入っていった。

四肢肉(ししにく)とは

 元来,「四肢(しし)」とは四本足の動物(猪・鹿・兎等)の肉のことで,古来日本人が食用としてきた獣肉のことである。仏教の影響で特に四本足(四肢肉)の食を禁じたことから派生した言葉である「」を採りたい。イのシシ(猪)・カのシシ(鹿)・ワのシシ(豚)・くま(熊・隈)シシetc…。食するものが減ってくると,ウサギは元々鳥の仲間で2本足だとこじ付け,一羽二羽と数え食していた。(現在は一匹二匹になっている)

 人と同じ四本足の獣肉を食すことが宗教上出来ない時代があった。時が下り獣肉を食すことが緩やかになると,その毛皮を剥ぎ肉を捌く人が必要となる。江戸期になると多くの人が忌み嫌うことを被差別部落の人たちに押し付け生業にさせていた。鹿児島でも昭和50年代まで,「手の指を4本出し,あそこは部落じゃっでなぁ」と被差別集落を「四」と言う高齢者がいたが,この「四本足の動物」から派生した差別用語である。

柳田國男「海南小記」より「獣肉の呼び方」

 沖縄ではシシ(宍)とは食用の獣肉のことで今のように一種類の山の獣だけを意味していない。内地の田舎でもシシが宍人部などの宍であることが分かる。例えば鹿をカノシシ,カモシカをカモシシ・アオシシ・クラシシと言い,九州の島では牛を田のシシと呼ぶところさえある。ただ宍を食う習慣(食生活或いは宗教上の理由で)が衰えたために,肉をもって獣の名としていたことを忘れてしまったのである。豚は一般にワと呼んでいるが鳴き声からきた名であるそうだ。イノシシのイも同じように「ウィーウィー」の鳴き声からそう言われた。

 中には,イのシシからロのシシ,ハのシシなどその地の身近な獣肉をイロハ順に並べたという説もあるが,この説では全体的に説明がつかず弱い。

※ 参考・引用文献:獅子島風土誌(岩下芳泉)・長島町郷土誌・東町郷土史・出水郷土誌… 

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