獅子島の歴史「伊能忠敬と獅子島」【R5】9月7号

◎ 伊能の測量日記から
 長島・獅子島の伊能測量は,1810年,9月4日のことで,米ノ津から乗船し塩追浦に到着し逗留。翌日,塩追浦から加世堂,山門野,蔵元,浦底,轡(クツワ)島など13日間の長島測量を開始。9月15日の朝7ツ半(午前5時)後伊唐島を出発し,前島(所島)を伊能本隊が測り,鷹之口(獅子島最南端の達の崎)から二手「片側班(支隊)・立石班(本隊)」に分かれ測る。
 塀ノ串(幣串)に逗留。先日測った立石までは船で移動し,立石鼻から湯ノ口,御所浦まで測り逗留先の塀ノ串(※1)に帰る。支隊も昨日の続きを片側(かたそば)から御所浦まで測り塀ノ串に帰る。獅子島一周測り終わる。
 幣串の宿所に次の測量地の天草大矢野の庄屋たちが挨拶にやってきて,江戸暦局の行書状(※2)を渡す。翌日は朝から大雨で暫く渡海を見合わせ,9月18日九ツ半(午後13時)乗船し大多尾村に着き薩摩測量を終わる。
※1 幣串の宿泊地は寺島宗則の先祖,長野勘左衛門宅に当たる。1657年,長島が居地頭制になり出水郷から分離された時,長野勘左衛門が獅子島の番役で渡島した。その館は今でも地元の人が勤番地として呼んでいる。正に寺島宗則の先祖宅に榎本武揚の実父「箱田良助」が宿泊していたのです。戦のない寛永年間(1624~1644)になると,地頭は掛持地頭制(城下に居住し代官が支配)に変革されたが,甑島と長島は離島のため居地頭制(現地に居住)が存続した。
※2 その地の北緯は北極星を測ればわかるが,経度は木星凌犯(りょうはん)測定法で「伊能測量隊の観測と江戸暦局での木星にその衛星が隠れる時刻を比べる」ことで経度を測定する方法。

 以上伊能の測量日記からの抜粋です。幣串の吉兵衛・戸右衛門という網元の家に三日間宿泊し,今の幣串近くの岬から,串崎・湯ノ口コースと片側コースの二班に分かれ獅子島を測量していきました。今から二百年前,忠敬65歳の時のことです。

・ 伊能忠敬の絵「阿久根市在住 富永章子氏」

1 幣串に泊まった伊能忠敬と獅子島測量について

(1) 伊能測量は「幕府御用」の大事業で,費用も全額幕府から出ていました。また,現地で人足5人,馬7頭,長持ちなどを利用できる御証文を持参していました。半年前に一行の日程を知らせる廻状が長島地頭所に届いています。幕府命で行う全国的な測量ですので,忠敬と弟子,絵図師,棹取り,幕府天文方役の他,藩からも付廻役が随行したり,宿泊所に医師を待機させたりしています。各領地の藩主や首長は責任をもって測量の手伝いをしていたのです。

(2) 長島地頭の三崎平太は,加世堂・浦底・伊唐島・幣串など宿泊地の庄屋や網元等を集めて,村の書上帳や絵図の認め方,接待等について対策を講じています。九州測量隊は総勢18名で,宿泊場の確保も大変でした。基本的には旅館に泊まらず,津々浦々の網元や庄屋,富豪農家,お寺等に宿泊していました。地頭所は,測量隊の寝巻,布団,ゴザ,蚊帳,膳碗等を2~30人分準備し,運搬しています。長島では網元宅,庄屋宅の他,長光寺に宿泊していますが,村人足や船の確保,炊き出しなど大変だったようです。

伊唐島,前島を測量後,忠敬が幣串に入ったのは,9月15日のことです。この時,伊能本隊(長島測量隊)と坂部別働隊(肥後測量隊)が幣串で合流しています。18日,薩摩藩士が天草の大多尾村へ送り届けるまでの三泊四日の獅子島測量でした。幣串や御所ノ浦の漁師を雇い,前島や串崎,タグイ岬など目標となる岬や村境には前もって標識や梵天を立てさせ,その間を縄や鉄鎖で測っていました。

(3) 長島測量の薩摩藩随行者の中に,脇本奉行「松木宗諄」の名があります。この松木宗諄の孫に当たる人は,「幣串勤番」で紹介した初代「長野勘左衛門」の子孫で,幼名を長野徳太郎と言いました。長崎で医学の修行をし,その後,薩英戦争や王政復古で活躍し,後に外務大臣や文部大臣,元老院議長などを務めた寺島宗則なのです。脇本の生家前の寺島の地名を用いて寺島宗則と改名しました。

 また,別働隊従事者の中に,教科書等で有名な右の「伊能忠敬肖像画」を描いた御用絵師の「青木勝次郎」の名もあります。御用絵師とは,測量隊に随行して主に山岳や町並み等の沿道風景の写生を担当していました。当然,滞在地の幣串浦や七郎山の風景も描いているはずです。

 さらに,江戸幕府出の五稜郭総裁,明治海軍の創設者,政府の外務・文部・逓信大臣などを勤めた,榎本武揚の実父「箱田良助」も別働隊の随行者として獅子島で合流しています。ちなみに,伊能忠敬が有名になったのは明治以降のことでした。また,反政府軍にいた榎本武揚の助命嘆願したのは寺島宗則の8才後輩で第2代総理大臣を務めた黒田清隆であった。新政府の中心にいた寺島宗則や榎本武揚らが,祖父や父に伊能忠敬の偉大さについて聞いていたことを基に「忠敬偉人伝」を広めていったのでしょうか。

2 伊能地図の内容について

○ 海岸線周囲41・863キロ,獅子島戸数55戸(御所ノ浦31戸,片側11戸,幣串記録なし,

湯ノ口2戸)

(1) 獅子島に関する伊能地図からの一考察

 記録のない幣串の戸数は,獅子島全体から引くと,11戸になります。この戸数55戸は,江戸時代当時の墓石調査等の記録や島原の乱後の獅子島の戸数調査よりも,石高調整等の関係か理由は分かりませんが少ないようです。このように,海岸線図だけでなく,内陸部の地勢や戸数,地名なども伊能地図には記載され,その正確さが後に欧米諸国でも有名になりました。

 第一次の北海道では,忠敬自身による歩測で測られていましたが,第二次からは,鉄鎖等で正確に測られるようになりました。しかし,測量困難な崖などでは,船から測ったり,岩場まで人が泳いだりしていました。獅子島でも串崎,タグイ岬辺りは船から測量していたようです。また,城川内や伊唐島など町内4か所で,天体観測による経度調査を行い微調整をしていますので,ほぼ正確な数字が残されています。伊能地図の基本的な記載内容としては海岸線と主な街道等でしたが,内陸部の河川名や山岳,村名などの記載があります。これらは,名主や村役人,藩役人などが同行し,村名や川,戸数などを詳しく教えていました。

(2) 幣串の地名の由来は,長島や出水関係の古文書にも記載がなく,口承記録もないようです。 唯一の手がかりとして,伊能地図や藩役人の随行日誌等によると,ひょうたん島を大島(人の住む島),前島を所島(所の名から藩の蔵入所「鹿倉所」があった),幣串の読みが「ヘイグシ」という記録があります。地名等の細部は同行した藩の役人が担当していたので,この記載は薩摩藩の公式呼称として使っていたことになります。

◎ 参考・引用文献:鹿児島県史料集(X)伊能忠敬の鹿児島測量関係資料並に開設・東町郷土史・五和町史・「伊能忠敬の地図をよむ」等…

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