獅子島の歴史「幣串勤番と御前川」【R5】9月8号

◎ 戦国時代獅子島は,出水の島津義虎の領土として,天草鎮尚から割譲され正式に島津領となりました。その後,出水5万石は秀吉に没収され,一時天領や対馬領となりましたが,島津軍の朝鮮の役での大活躍で豊臣奉行の一人だった徳川家康の意向によって全国で唯一返還された領土でした。

この返還がなければ獅子島は肥後の国であったかもしれません。江戸時代の初期,薩摩藩では各郷に地頭を派遣して政治を行い,地頭は任地に住んでいましたが,1657年,藩の中央集権が整うと長島と甑島以外は掛持地頭となり,鹿児島城下に住むようになりました。獅子島は肥後・天草との国境に接し,海上防衛上重要な所で,長島が出水郡から分立した際に,藩命で幣串に勤番を置きました。初代の幣串勤番は,長野勘左衛門(二代目)という人でした。

1 幣串勤番(きんばん)について

(1) 勤番とは,地頭仮屋の支所的なもので,長島は今の鷹巣役場の所に地頭仮屋を,幣串に勤番屋敷を御所ノ浦・三船・蔵之元に番所を置き長島を統治しました。幣串勤番の仕事としては,鹿皮年貢の検収,出入り船の積荷検めや通行手形の確認,キリスト教,一向宗門徒や不審者の取り調べなど今の役所や警察の他,海上保安庁などの役目もあったようです。番所の前の道は,手ぬぐいやぞうりをとり,絶対下駄履きで通ることは許されなかったそうです。長野勘左衛門二代・三代の親子で24年間勤めた後,1680年に伊唐島(現伊唐小)に御仮屋を移しました。伊唐島はそのころ無人島でしたので,諸浦から8家族を移住させ,御仮屋を建て独身郷士2人に年限を決め,島の取り締まりに当てていたそうです。

(2) 幣串勤番の長野勘左衛門の父にあたる初代勘左衛門は,出水5万石が返還されたとき普請奉行として出水に移住してきた人でした。この勘左衛門は,関ヶ原の戦いで名高い脇本仮屋守の中馬大蔵の親友で,共に出水から関ヶ原までの陸路を走破し,かの有名な敵中突破を行った人でした。その際,敵の一番首を挙げる手柄を立てましたが,そこで壮絶な戦死をとげました。その武功により,その子二代目勘左衛門は石高を加増され幣串勤番の命を受けたのでした。その後,長野勘左衛門の子孫は,郷の重役となり浦底に移住して東町の村長や町長を務めた長野氏になります。

(3) 1637年,出水地頭の山田昌巌が,島原の乱に備え兵300名を引き連れて幣串や片側にしばらく滞在しています。この時,国境警備として獅子島防衛の必要性と島民の実情を藩に報告しています。1657年9月16日,長島が出水郡から分離独立し,初代地頭として仁礼影頼が就任しました。その補佐として,長野勘左衛門が獅子島を統括する幣串勤番として務めることになったのです。

1667年,薩摩藩主島津光久が獅子島を遊説した折,獅子島島民の貧苦を知り,米20石を与えました。当時獅子島は藩の鹿の大牧場として数百頭の鹿が海岸に群れをなして遊んでいたそうです。藩主は鹿皮の年貢を認め,島民は漁業の傍ら鹿の番人として働き,年貢を要しなかったそうです。また,藩主光久来島時の逸話が,御所ノ浦の地名・御前川・キツネの話として残っています。御所ノ浦は,冬場寒く当時「雪之川内」と言っていましたが,藩主が宿泊したので「御所ノ浦」と言うようになったそうです。しかし,私見を述べると御所とは一般的に天皇に関わる地名で,かつ津や浦の設置などは幕府の承認事項で不自然です。これは薩摩藩(勤番)への表向き理由で,隣の御所浦島との関わりか景行天皇伝説や天道信仰(御所ノ浦には天道山がある)からの由来の方が強いのではないでしょうか。

 御前川について

(1) 幣串地区簡易水道竣工の記念碑があります。「人の日常生活に不可欠なるもの水に如くはなく,幣串集落は飲料水の不足に悩み続けること久しく。良質豊富な水の確保は住民の渇望するところである…昭和47年5月」それまで幣串には数カ所の井戸があり近くの人たちの飲料水として利用していたそうです。幣串地区は,谷間が短いので河川流域がなく,干ばつの影響を受けやすい所でした。金比羅様の麓に直径2メートル程の古井戸があります。今は畑の水として利用しているそうです。ここは,第19代藩主島津光久が,獅子島視察からの帰路,勤番役所で休憩し,飲料水として使用した井戸なので「御前川」と呼ぶようになったそうです。

水の確保は命に関わる問題で,日照が続くと集落の人たちは御前川に集まり雨乞いの儀式を執り行ったそうです。「男たちが御前川の水をかき出した後,女たちが三味線でにぎやかに歌い踊ったら,3日以内に夕立がきたそうです。」この雨乞いの儀式は上水道が整備されるまで行っていたとのことです。

(2) また,次のようなキツネの伝説が残っています。藩主光久が幣串港から乗船して帰路につかれたとき,この舟に乗り遅れたら,泣いても叫んでも「舟はこんぞ」と言われたのを,キツネは,「冬はコンぞ」と聞き違えて,冬の寒い夜にもコンと泣かなくなったそうです。今でも,この残された白キツネが時折,旅人や島民を騙して人々が困っているとのことです。

※ キツネは島津家の守り神です。薩摩藩政下でキツネの伝説は,島津氏のことを暗に表すこともあるようです。キツネが舟に乗り遅れたとか,泣かなくなったとか,島民を騙して人々が困っているとか,この伝説で当時の島津統治は,余り歓迎されていないことが推察できます。

◎ 参考・引用文献:東町郷土史・出水郷土誌・県史等… 

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