獅子島の歴史「豊臣秀吉と獅子島」【R5】9月6号

◎ 獅子島の名は,12世紀の書物にすでに出てきます。獅子島は,天草や芦北・水俣・米ノ津へ通じる水路の要所で,天草諸氏の勢力争いや相良氏,出水の薩州島津家との領土争いなど,主に中世の歴史から登場します。また,秀吉の九州征伐や島原の乱,西南戦争等々でもその名が登場します。

1 陣出(じんで)の由来

(1) 八代海を隔て,水俣を望む立石地区の先に「陣出(じんで)」と言う地名が残っています。秀吉の水軍が出陣した所だと言われています。獅子島が肥後領から薩摩領になって間もない1587年(天正15年),天下統一を目指す豊臣秀吉が,九州平定のため大軍で進撃してきました。九州路を南下し,その水軍の一部が,芦北の佐敷港から獅子島に上陸しました。

 この時,天草5人衆も降伏し,薩摩討伐の先陣(これまでの恨みを晴らさせる秀吉の狙い)を務めています。そして川内への出陣時,潮の流れを知り尽くしている獅子島の漁師が借り出され,黒之瀬戸への近道を案内したのです。その時,加世堂湾から山門野の丘に登り,薩摩の国の様子を偵察した所が,国見岳(くにみだけ)と言われるようになったと言う伝説が残っています。

・ 陣出(じんで)

(2) では,どうして秀吉軍が獅子島にやってきたのでしょうか。少ない史料の中から当時の秀吉を取り巻く社会情勢等を考慮すれば,大きく2つの理由が考えられます。一つは,「一向一揆の蜂起による島津領内での混乱及び情報収集」で,二つ目が「太閤検地の実施」です。このことは,「農民や寺社等が武装し,一揆を起こしていた中世」から「刀狩り・兵農分離・石高制度等による近世社会」に時代が大きく変わるきっかけとなったのです。

 獅子島での一向宗門徒のことや太閤検地が史実であれば,薩摩での中世から近世社会へのきっかけが獅子島であると言えるかもしれません。九州地方の寺社から台帳を集め獅子島での権利関係の確認を行って検地をしていたなら島津征伐後の領地分配をすでに考えていた余裕の出陣になります。特に国境の離島である獅子島は肥後や天草,薩摩など領主が入れ替わり正確な年貢賦課が出来ていたか把握する意味もあったのではないでしょうか。

2 島津征伐と獅子島の一向宗門徒(情報収集と画策)

(1) 天下統一に向かう秀吉は,大軍団で大阪城を出て九州に向かいますが,途中,厳島神社への参拝や名所見物,歌の会を催すなど戦いの緊迫感もない優雅な旅でした。しかし,さすが天下をとるだけの武将です。先発隊を送り,緻密な情報収集や画策などを行っていました。信長と戦った浄土真宗,石山本願寺の門主顕如(けんにょ)と手を組み,九州出兵時までに周到な準備をしていました。佐賀・熊本のワタリ衆につなぎをつけ,人形遣いや薬売り行商等に扮した者に各地の情報収集と報告をさせていたのです。そして,肥後や薩摩の情報を分析し,「薩摩には優秀な僧が多い。」「不知火沿岸は信仰心が厚い一向宗門徒が多い。」,「大名の戦力・島津氏の勢力範囲,地形,潮の流れ,一向宗門徒の数や寄進額」等々…,長島や獅子島を含め進路沿いのことをくわしく調査し,戦略を練って周到な手筈を整えていたのです。情報収集面については,薩摩側からすると方言が邪魔をし,秀吉側からすると方言の分かる僧や農民などを雇っていた違いが大きかったと言われています。

(2) 秀吉は本願寺の実力者下間頼廉を随行させ,本願寺門徒を肥後や薩摩に派遣したり,不知火湾沿いの門徒の力を借りたりして,一向一揆の蜂起を画策させたと言われています。さらに,水俣から出水への上陸作戦の時には「獅子島一向宗門徒の手引き」などの手助けがあったと言われ,後に島津義弘が激怒し,薩摩の一向宗弾圧令につながったとの説があるほどです。当時は肥後から薩摩に至る大きな道がなく,移動困難な中,秀吉軍は熊本・佐賀県の全ての漁船を集めながら,十数万の大軍が,その船に乗って川内市に上陸しました。ところで,一向宗とは浄土真宗のことです。一向とは,一途にという意味で「一途に阿弥陀仏を信ずるから一向宗」と呼んでいました。一向宗は,16世紀初頭九州に広まっており,天草や長島,獅子島では熱心な門徒が多くいました。

※ 長島への三ヶ条の定
 一 早々検地をしなさい
 二 田畑を耕作しなさい
 三 軍隊は地元の人にやからを言わないこと

3 太閤検地と獅子島

(1) 太閤検地とは,初めて全国の統一基準で土地の生産高を石高で表示したものです。この年貢高を規定した台帳が検注帳で,田畑については,上田・中田・下田等の等級をつけて玄米収穫見込額から村ごとの石高を定めていました。薩摩での太閤検地は,水軍が獅子島に向かう時,秀吉が「長島への三ヶ条の定」を出したのが最初です。秀吉が佐敷に滞在中の命令ですので,獅子島でどの程度の検地が出来たのかは記録がなく分かりませんが,離島検地の下見程度であったのかもしれません。当時は肥後での反乱など検地に対する反対が多く,薩摩での正式な検地は,獅子島検地の7年後,1594年に大口でようやく始まっています。獅子島は薩摩で初めての太閤検地を行った場所ということになります。

(2) 太閤検地の内容は,田畑の面積や生産高だけでなく,例えば「柿の木一本で,米一升の年貢」と言う具合に果樹や水産物,人や牛馬の数等も調査していました。検地に背く者があれば村ごと処罰される大変厳しいものした。当時は収穫の七割近くが年貢として取られ,島民にとって厳しいものでした。江戸時代の初め,御所ノ浦,幣串に視察にやってきた藩主光久が,獅子島の貧苦を知り,特産の鹿の皮を年貢としてよいとの命令を出し少しは楽になりましたが,依然として苦しい時代は続きました。

※ 参考・引用文献:東・長島町郷土史・出水郷土誌・県史等

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