異論・反論~議論・討論⑤「PTAのエピソードについて」

PTAの現状と課題

 前回,PTAの前身である戦前の「学校後援会」が,地元の権力者たちによる学校への圧力(軍国主義につながる影響)を排除し,GHQが戦後早い段階で,(日本の民主化のために)アメリカ式のPTAの取組を導入した経緯について投稿しました。今回は,地域社会との関係が希薄化している現在のPTAの状況や課題について触れたいと思います。

市町村合併でも残った町PTA連絡協議会

 近年,学校単位のPTA活動の負担感や役員選出の困難さなどを背景に,「PTA不要論」が全国的に広がりつつあります。本県は他県と比べて保守的とされ,縦のつながりが地域性にも色濃く残っていると言われています。そのため,「平成の市町村合併」の際にも町P連(町PTA連絡協議会)が解体されずに残り,小規模校におけるPTA役員選出に支障が出る事例がありました。

 「合併して市になったのに,なぜ町P連が残るのか」と疑問を抱く会員も多く,説明に苦慮しました。当時,町P連では役員や研究発表のローテーションが10年先まで決まっており,適切な引き継ぎが行われないと逆に不公平感が生じること,また町P連の良き取り組みや成果,伝統,地域の教育力をしばらく維持する必要性があるとの理由を挙げましたが,これらの説明は会員の一部から苦し紛れと受け取られることもありました。

 他にも町P連の繰越金や役員の輪番など様々な課題があったようです。町P連・市P連,県P連の活動予算は,単位PTAから児童一人当たり数十円から数百円程度の負担金に学校規模割金額が加算され上納するシステムになっていたようです。

PTAでのエピソード①

 ここで,これまで私がPTAに関わった経験談についてお話しします。

 PTA係の仕事で最初にすることが役員決めです。複式や単式の学校では比較的簡単に進むのですが,学年に2クラス以上あると少し事情が異なります。

 複式の場合は,お母さんたちですでに話し合っており,学級PTAの前に役員名が書かれたメモが担任に渡されます。単式の場合は「一人の子どもが入学してから卒業までの間に,役員を一回以上する取り決め」があり,6年生で役員になるのは卒業式の親代表あいさつや謝恩会などから敬遠されており,低・中学年で済ませる母親が多いようです。

 また,PTA役員の中で副委員長の選出まではすんなりと決まりますが,学級委員長,各専門部長は次の学年役員会に出席して学年役員の選挙を行います。そして更に学年役員から,専門部などのPTA執行部が選ばれ,その中から学校全体のPTA会長や各専門部の部長が決定します。このため,学級役員のみで済む人は非常にラッキーだと言えるのです。これがオーソドックスな選出方法ですが,学校によって多少異なります。

PTA役員が敬遠される理由

 「学年役員」になると大変だということは,保育園のママ友などから事前に聞いている保護者が多いため,学年委員会での役員選びは毎年難航します。役員に選ばれると,1年間にわたり大きな負担がのしかかります。加えて,市や県のPTA連絡協議会の研究発表会が輪番で重なると,自分が勤めている仕事に匹敵するほどの時間を割かれることもあります。

 あるPTA書記の方が「県PTA委嘱公開の時,1年間で200日近く学校に通ったので,出勤簿を置いてほしい」と冗談めかして言っていましたが,これは決して誇張ではなかったのです。当時の委嘱公開は会場から研究発表,研究誌の作成まで単位PTAに任されていました。研究発表の準備だけでも週に2~3回の会合がありました。当時,勤務していた学校が県P委嘱公開の翌年に地区指定の研究会の会場校だったこともあり,会員全員が忙しかったことを思い出します。

 一方で会合が多い理由の一つに,母親たちが仕事内容を分担して持ち帰ることが難しいという事情があったようです。「一緒の場で決めなければ,後で何を言われるか分からない」という心理も働き,父親たちからは「母ちゃんたちは,本当に会合が好きなんだ」と言われていました。実際に明らかに持ち帰りで済む場合を除き,何度でも全員で話し合っていたようでした。毎日のように遅くまで学校にいる母親に対し,心配したある父親から「早く切り上げるように」と電話で注意されたこともありました。

 特に,県PTAの研究会と学校の研究会が連続した際は,私も毎日15時間勤務のような状況になり,あるとき校舎がゆがんで見えたこともありました。3年間の勤務のうち,計算上半分以上は学校に住んでいたも同然で,もはや労働基準法のない世界でしたが,研究成果も想い出もたくさん残っており,充実した3年間でした。

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