皇徳寺団地の由来となった寺院

永谷山皇徳寺跡

 今回は中山インター近くの皇徳寺跡を訪れました。

 日新公に儒学・朱子学を教え,『いろは歌』の原型を授けたと言われる桂庵玄樹の高弟,耕翁舜田とその弟子舜有(保泉寺)が一時期務めていた寺院であったからです。

 寺跡の周りには畑が広がっており,畑作業をしている方々がいましたので,皇徳寺の場所や僧侶の墓について話を聞くことができました。彼らがこの寺院の歴史について詳しく知っていることに驚きました。

 明治の廃仏毀釈で廃寺になり,跡地が田畑になったこと,墓石群が山腹に移されたことなど,詳しく教えていただきました。また,皇徳寺と関係があるかどうか不明でしたが,近くの鏡石と呼ばれる奇岩や石に彫った仏像まで案内していただきました。

 話を聞くうちに,この寺院が地域に概ね慕われていたことが分かりました。それは,これまで県内の寺院を調べていく中で,廃仏毀釈で徹底的に破壊された寺と,密かに石仏等が隠されて比較的綺麗に残っている寺に大きく分かれていたからです。

 地域の高齢者から話を聞くと,廃寺に至る経緯や伝承などから,その寺が地域の方に慕われていたか否かがよく分かります。

 三国名勝図会に,「永谷山皇徳寺は,山田村にあり,能州総持寺の末寺であり,曹洞宗の寺院です。本尊は釈迦如来であり,開山は無外円照和尚で,至徳年間(1384~1386)に現在の場所に移転し,『皇徳寺』と改称されたようです。」とあります。

無外円照和尚

 皇徳寺の山号は永谷山で,谷山五郎隆信(薩摩平氏)の子である忠高が,無外円照和尚を招いて新たに谷山の地に建立した寺院です。

 その後,福昌寺の末寺となり,寺領100石を有し,七堂の伽藍を誇る堂々たる存在でした。しかし,明治2年の廃仏毀釈により廃寺となり,その栄華は失われました。

・ 三国名勝図絵

 現在でも,仁王像や無外円照和尚,円照の師である峨山禅師の供養塔,そして歴代和尚の墓などが残っており,「杉馬場」や「下馬先」,「寺屋敷」の地名も当時の面影を伝えています。また,白蛇の話を伝える池「あなぶろ」のことも聞くことができました。

 これらの遺物から,かつての皇徳寺の壮大さを思いはせることができます。また,畑近くの墓石群も皇徳寺に関連するものと考えられています。

・ 寺院跡

 皇徳寺には一時期,薩南学派の学僧等もおり,南北朝の騒乱から日置の梅岳寺に逃れた舜田・舜有和尚等もかつて住職を務めていました。学識の高さで知られた舜有は,天文年間(1532~1555)に島津忠良と息子の貴久に学問の師として迎えられました。

・山川石制の無外円照,峨山禅師の供養宝篋印塔?

 永谷山皇徳寺は,山田村に位置し,能州総持寺の末寺であり,曹洞宗の寺院です。本尊は釈迦如来であり,開山は無外円照和尚で,懐良親王の菩提寺でもあります。永平寺の直末として曹洞宗に属しています。三国名勝図会では,能州総持寺の末とされており(横浜市鶴見区に所在),至徳年間(1384~1386)に現在の場所に移転し,「皇徳寺」と改称されたようです。

・ 鏡石 

・ 巨岩に線刻した墓石

六地蔵塔

 六地蔵に刻まれている「正貞禅定門」とは,島津義弘の息子である久保が朝鮮の役で病死した際に殉死した山本親匡という人物の戒名であるそうです。皇徳寺は廃寺後,田畑や宅地となっており,寺にあった墓石群などは近くの山に移され,当時の面影はないようです。

・ 3メートル近くの巨大な六地蔵塔

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