県内に多い慰霊塔

 朝ドラ「あんぱん」で,戦争から帰還した崇が,弟・千尋の戦死を知らされる場面が描かれていました。戦争のドラマではよく見られるシーンですが,家族を次々に失い,ただ一人戦地から戻った崇を迎える叔母役の演技は見事でした。言葉にしがたい深い悲しみと安堵がにじんでいて,戸田菜穂さんの表情や所作には,心に迫るものがあり,あの短い場面の中に戦争の悲劇と家族の絆が凝縮されていたように思います。

 史実によれば,千尋さんが乗っていた駆逐艦「呉竹(くれたけ)」は,アメリカの潜水艦からの雷撃を受けて台湾南方沖で沈没し,千尋さんは帰らぬ人となったそうです。

 鹿児島県は東シナ海に面しており,海上の犠牲は多く,悪石島沖の学童疎開船「対馬丸」や徳之島沖の輸送船「富山丸」,坊津沖の輸送船「馬来丸」など,数多くの犠牲者を出ました。その一方で,日本から出撃した潜水艦のほとんどが沈没し,帰還できなかったそうです。これは,作戦上のミスだけでなく,空調設備の不備など構造的な欠陥が大きな要因であったようです。

 今こうして振り返ると,当時これほどまでに戦力の差がありながら,なぜ戦争に踏み切ったのか,改めて考えさせられます。

・ 徳之島亀徳「なごみの岬公園」~富山丸慰霊塔

 富山丸は太平洋戦争中の昭和19年6月29日に亀徳沖にて米艦魚雷により撃沈した輸送船で,慰霊碑建立,周辺が整備されています。『なごみの岬公園』と命名され,毎年4月に,ご遺族が全国より集い「富山丸慰霊祭」が執り行われているそうです。

伯父さんの話

 私の伯父(父の兄)は,大正12年生まれで,鹿児島師範学校本科を昭和19年に繰り下げで卒業しました。卒業後は,肝属郡内の国民学校に籍を置き,まもなく佐世保市の相浦海兵団に入団いたしました。鹿児島県内から集められた多くの仲間たちとともに,軍用列車で佐世保基地を目指しましたが,途中の経路が空襲被害のため何度も列車を乗り継いで,ようやくたどり着いたそうです。

 佐世保では,およそ3か月間の厳しい訓練を受けました。やがて乗艦する軍艦も決まりかけていた頃,なぜか予定が変更となり,別の任務に就くことになったと聞いています。当時,師範学校出身者は一般兵とは異なる分隊に配属されることもあったようで,そのことと関係があったのかもしれません。

 そうして日々が過ぎるうちに終戦を迎え,結果的に戦地に赴くこともなく,命をつなぐことができたようです。昭和20年9月1日付で,形式上は原籍の国民学校に復帰し,間もなく同地区内の別の学校へ異動となりました。

 ちなみに,当時の給与についてですが,昭和20年10月31日付けで,当時21歳だった伯父は「8給棒・当分70円の給与」(県教委)を受けていたとの記録があります。戦後は急激なインフレの影響で貨幣価値が毎年大きく変動し,その年の実質的な価値はおよそ7万円程度であったといわれています。しかし,その後の物価の上昇と物資の不足が続き,特に食料の確保には大変苦労したようです。教育の道を志しながらも,戦争の波に翻弄され,生活の困難に立ち向かった当時の人々は皆同じような時代を過ごしてきたのです。

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