県内の妙見神社・天之御中主神社について【R5】9月2号

 県内に「妙見神社」や「天之御中主神社」と名乗る神社が,鹿児島や国分,枕崎などに十数カ所見受けられます。今回いくつか紹介します。

 まず,江戸時代に漁村の人たちにとって,妙見信仰は「夜空に輝き動かない星・北極星に対する信仰」として大切にされてきました。妙見は「海を鎮める霊験が強い」とされています。明かりのない時代に、漁業に生きる人たちが、北の夜空に輝き正確な方位を導く北極星を頼りとしたのです。

 神仏習合で妙見信仰は万能ゆえに種々の神仏に変化し、妙見菩薩に加え、阿弥陀如来、弁才天など様々な仏像が祀られていました。そんな妙見信仰も郷土誌の神社考によると,明治の神仏分離政策により、元々が仏教色の強い妙見菩薩は排除されてしまい,一時期県内の「妙見」という社名すら失われました。

 宇宿の「天之御中主神社」は元々妙見神社であったのですが,庶民に広がった北極星信仰であったため,祭神を妙見さまから古事記に登場する「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」に替えて,神社は存続を認めたそうです。同時に神社名も天之御中主神社に変更したそうですが,現在「妙見神社」と名乗っている所は,後に元に戻した神社になります。

1 妙見神社(幣串神社)について~東町郷土史より

(1) 長島町獅子島幣串の前島(※所島)にある妙見神社は昔から地元の人に明神様と言われ,獅子島の鎮守,漁業航海の神として厚く信仰されています。「満潮時に神楽の音を聞けばその年は豊漁,干潮のときに聞こえれば悪疫流行の凶年である。」と言い伝えが残っています。昔は祭日の日には島民が集まり神楽を舞い相撲を奉納していました。

 妙見神社は県神道会名簿によると神社名は江戸期の地名から幣串「へいぐし」神社となったと紹介されています。東町郷土史よりよると,地元の人に親しまれ,御祭神は,市杵嶋比売命(海の神様)・尊星王・北辰菩薩(妙見信仰の神様)の名があります。

※所島とは幣串前島のことで,江戸初期の一時期,鹿皮の年貢を保管しておく蔵所があったそうです。幣串番所の在勤役人が管理していました。1659年中馬大蔵の孫が藩の狩倉であった獅子島で鹿を撃ち持ち帰った所を幣串勤番の役人に見つかり,藩主より知行没収の沙汰がおりた記録が残っています。(出水風土誌)

(2) 境内に文久2年壬戌(1862年)の記念石碑があります。江戸時代に妙見信仰の中心であった八代神社(妙見宮)から航海安全の御利益を祈願して,尊星王・北辰菩薩を勧請して建立されたようです。ところが,明治元年の神仏分離令により,妙見信仰は事実上禁止されましたので,妙見神社も幣串近くの串崎(長鼻)の恵比寿様から前島に移されました。さらに社名も妙見神社から地名の「ヘイグシ」神社へと変更したようです。明治9年,信教の自由が認められ元の妙見神社に戻しましたが,登録上はそのままだったようです。この文献からそれまで幣串(へぐし)は「ヘイグシ」と呼んでいたことが分かります。

(3) 祭神について

阿久根市在住 富永章子

(ア) 市杵島姫尊(弁天様)

 市杵島姫尊は,天孫降臨の際に道中の安全を守護するように命じられたので,海上安全・交通安全の女神になりました。その後,神仏習合によって弁財天と同一視され財福・芸能・美容などご利益が増えましたが,本来海の神で,豊漁・海上安全・航海安全として漁師を中心にお祀りされていました。なお弁財天は学問・音楽・芸術の神として妙音天とも呼ばれ,琵琶を弾く姿が多いのです。神仏分離令後,弁天様は,習合する前の市杵島姫尊に戻りました。

(イ) 尊星王・北辰菩薩

 仏教の菩薩と北斗信仰が融合し,妙見菩薩となり,「北辰・北斗に祈れば災いを免れ,福がきて長生きできる。」との信仰が生まれ,身近な神様として祀られました。

 「妙見」とは「優れた視力」の意味で、真理や善悪をよく見通す神様ということです。妙見信仰とは、星座の中心が北極星であることから、北極星に人の運命は支配されているとする北辰信仰を基にして、北極星や北斗七星を神格化した妙見菩薩を祀る信仰です。また北極星は北辰星(北辰信仰)とも呼ばれ、密教の陰陽道とも密接な関係にありました。北の守護神は玄武で北極星や北斗七星の化身、妙見菩薩の神の使いは、北の守護神の玄武(亀蛇)で亀が象徴とされています。江戸時代の復古神道においては、天之御中主神は天地万物を司る最高位の神と位置づけられました。そして明治の神仏分離令によって,妙見神社の祭神が天之御中主神に改められました。

2 幣串の地名について

 前述のように,幣串(へぐし)は江戸期には「へいぐし」と呼ばれていました。地名由来は諸説ありますが,地名の漢字表記から「神様に供えた幣帛をはさんだ幣串がたくさんあったからだとする説」がよく言われています。その他,九州地方には「海岸に突き出て、三方が断崖に囲まれている地形」に「鼻や串」の付く地名がたくさんあります。

 伊能忠敬の測量日記(1810年9月15日)には,「伊能本隊が伊唐島出立し,所島(前島)一周を測り,獅子島の鷹之口から片側湊まで,永井別隊が鷹之口(※1)から立石鼻まで測量して塀ノ串(本字ではない)の吉兵衛・戸右衛門宅で宿泊した。」とあります。漢字表記は異なりますが,この地を「へいのくし」と呼んでいたことが分かります。串の前に「の」があるので現在の幣串の地名表記でなく「へいという串(岬)」と言うことを読み取ることができます。

 この串(岬)が,三方を断崖に囲まれ、海岸に突き出した高台に立地し,並(広くかぶさる)や蔽(おおい隠す)などの並「へい」と串「くし」を語源とする岬の地形地名ではないでしょうか。いくつかの串(岬)が重なった地形の意味に近いと考えます。岬の片側は天然の波よけになりますので,前島も含めると幣串は「入り江が重なった天然の良港」になっているのです。

(※1) 鷹之口とは伊唐島に近い岬「(たつ)(さき)(たか)(くち)(ばな))」のことになります。ここから二班に分れ獅子島を測量していきました。

※ 参考・引用資料「東町郷土史・鹿児島県神道会資料・出水郷土誌ほか」

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