真田幸村の墓と伝わる宝篋印塔(供養塔)

戦国武将ブームと歴女

 平成になり,多くの学校で図書室に「歴史マンガ」シリーズがセットで置かれるようになりました。子どもたちが夢中で読んでおり,「戦国ブーム」となっていました。その頃から一部国語教師を中心に図書室に漫画を置くことに批判もあったのです。国語科の特質として「叙述に即して読み取る力」を大切にしていたからです。教科書の挿絵を含め漫画が描く情景はあくまでも画家の解釈であるのに,読み手の子どもたちの読解にまで影響を与えていたからです。一方その良し悪しは別として,子どもたちの歴史に関する知識は私たちの頃と比べて格段に向上していました。

 有名作家の歴史小説に感化されて,歴史好きになる女性は少なくなく,戦国武将がゲームやアニメのキャラクターとして親しまれる様になるといわゆる「歴女」という人たちが出現しました。さらに平成17年にプレイステーションのゲーム『戦国バサラ』が発売されると,伊達政宗や真田幸村が大ブームになりました。

 それから数年後の話です。頴娃町の地名調査のために南九州市頴娃町牧之内の「雪丸」集落を訪れました。教育委員会の担当者から,山の中に真田幸村のものと言われる墓があり,地名や人名の由来になっていると聞いたからです。

※ なお「雪丸の地名由来」については次の項で記します。

 雪丸地区の雑貨屋の店主に墓の場所を尋ねると,知らないとの返事でした。しかし最近,県外から若い女性たちがよく訪ねてくることを伺いました。しばらくして再び担当者と話す機会があったので,「東京の学生歴女がアルバイトで旅費を貯め,はるか頴娃町の山間部まで路線バスを乗り継ぎ,或いは徒歩でやってくるのに,地元の方が知らないのはおかしいのでは」と話しました。その後,再び墓を訪れると,集落の入口から墓までの案内看板が設置されていました。

 さらに数年後の平成28年,NHK大河ドラマ『真田丸』が放送され,主演の堺雅人さん夫婦を含め,多くの人々が訪れるようになったと新聞等で知りました。

頴娃町雪丸の真田幸村伝説

 南九州市頴娃町牧之内の「雪丸(ゆきまる)」地区には,地名の由来とされる真田幸村が隠れ住んでいたという伝説があります。家康に対峙した英雄として絶大な人気を誇る真田幸村は,大坂夏の陣で壮絶な最期を遂げました。翌日,豊臣秀頼と淀君も自害し,大坂城は落城,徳川軍が勝利を収めました。

 その戦いぶりを讃えた島津家第18代当主の家久は,国元へ「真田は日本一の勇者。昔からの物語にもこれほどの者はいない。特筆すべきはこの人物のみ」と報告しました。この家久の「真田は日本一の勇者」は江戸期に各地の伝説とともに広がりました。

・ 谷山支所近くにある豊臣秀頼のものと伝わる墓。しかし,県の資料によると,鎌倉中期の谷山郡司,平姓谷山氏初代忠光の供養塔説が有力であるようです。  

秀頼の食い逃げ伝説

 高校時代の歴史の授業で,豊臣秀頼が谷山の料理屋で毎回無銭飲食をして「谷山の食い逃げ」と言われたという伝説を聞いたことがあります。これまでお金を支払ったことがない秀頼は,谷山の料理屋で飲み食いした後,毎回支払いもせずに無銭飲食を繰り返していました。しかし,店主は殿様の客人であるため何も言えず困り果てたとの伝説が残ったそうです。

幸村の墓

 幸村の墓は,伝説とともに京都,長野,和歌山など全国に存在します。辺境の地,薩摩には多くの落人伝説が残されており,豊臣五大老の宇喜多秀家を2年以上匿った西軍の有力大名である島津家の存在がそうさせるのでしょう。

 伝説によると,大坂城の落城直前に幸村は豊臣秀頼を伴い,島津氏を頼って落ち延びました。秀頼は谷山に,幸村は雪丸に,後藤又兵衛(黒田勘兵衛・秀頼の家臣)は頴娃町耳原に隠れ住んでいたというものです。江戸時代に描かれた判官びいきの書物により,この秀頼救出劇が流行し,頴娃にも伝わってきました。

雪丸伝説について

 頴娃町渕別府には,幸村が一時潜伏していた隠れ家があり,近くの馬渡川の上流の川端には幸村の墓とされる墓石があります。当時,頴娃町摺木の百姓の娘が幸村の身の回りの世話をし,後に幸村の隠し子となる男子を産みました。

 幸村は世を忍ぶ身のため,彼の妻は後に大川の浦人の後妻となり,後に苗字帯刀を許されて真江田三左衛門と名乗りました。この名は,真田に江を入れ,幸村の官位である左衛門佐をもじったものだそうです。今でも大川には,その子孫とされる真江田という姓が残っています。(頴娃村郷土誌)

宝篋印塔(供養塔)について

右の写真は,雪丸の塔殿(とんどん)にある供養塔で,幸村の墓と伝えられています。この塔は関西式の宝篋印塔の形式で,基礎部が一段の短い石塔です。各部は四角の山川石で作られ,それぞれ積み上げられています。その形状・大きさ・材質等が,頴娃の大通寺跡にあるものに近いと言われています。

 伴姓頴娃氏四代の供養塔と比較すると,この供養塔は,宝珠を含む相輪部分と笠部の四隅飾突起が欠損しています。高さは80センチほどですが,下の合成想像図によると,相輪部分が残っていれば1メートルを超す石塔であったようです。

 重水宰氏の「薩摩国揖宿郡頴娃郡石造塔婆考」によると,宝篋印塔には通常,戒名や制作年代などの銘文が刻まれていますが,雪丸の石塔にはそれがなく,珍しいもののようです。また,石塔の形式や大きさは室町初期の特徴を持っており,伝承と時代的に一致しない部分もあるようです。

 宝篋印塔とは,五輪塔と同じく供養塔や墓碑塔の一種で,最上部に写経を納めた相輪がある石塔です。密教の教えによれば,「写経を塔中に置き,礼拝供養すれば重罪が一時に消滅し,災害から免れ,死後は極楽往生ができる」とされており,鎌倉時代から盛んに造られるようになりました。

 武士が亡くなると遺灰や骨壺の上に墓を作りますが,戦死などで遺骨がない場合には,ゆかりのある場所に石塔を建てて供養しました。この石塔は,極楽往生した人たちが安らかに眠る墓に相当するものです。

頴娃大通寺跡と雪丸の宝篋印塔の特徴について

 宝篋印塔は,構造が下から基礎・塔身・笠・相輪の四つからなり,丸い相輪と四角の石造りです。年代を特定する方法として,銘文や彫り込まれた仏像,蓮華,笠の四隅飾りなど各部分の様式を考え合わせて推定するそうです。しかし,雪丸の塔は相輪部分が欠損しているため,年代の特定が難しいのです。要するにこの石塔は,本物の根拠とは言い難い江戸期の伝説作りに多い物の一つに過ぎないのです。

 塔身部は本尊を意味し,四面には何も刻まれていない場合もありますが,中央の塔のように東西南北を表す四仏や仏像を刻むのです。幸村の墓の笠部を見ると,六段階の作りで相輪を支え,笠の下は二段作りで塔身の上に置かれており,基本的な関西型の構造になっています。

・ 相輪部分の特徴について

 相輪部分は,上から宝珠・反花・九輪・受花で構成されています。宝珠は,仏舎利や写経が納められ,願い事を成就させる重要な部分です。日本に伝わった仏舎利は米に似た大きさや色をしていたため,籾を代用していました。これが「米」を「シャリ」と呼ぶ由来になったそうです。 

 九輪は,多重塔の九つの金属の輪に相当し,真言密教の五如来・四菩薩の九を象徴する部分です。(参考引用文献:石造塔婆考・日本石仏事典)

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