矢筈岳の火立番所【R5】9月10号

1 火立番所

 1637年,幕府の鎖国令で中国とオランダ以外の貿易船は国内の港に入ることを禁止しました。幕府は各藩に命じて外国船の見張り番所(異国方火立番所)を設置させました。薩摩藩は周りを海に囲まれ,海辺の警備のため藩庁に異国方唐船方を置き,地方には①異国船番所・②津口番所(船や積み荷の出入りを取り締まる関所)24カ所や③遠見番所11カ所,④火立番所12カ所を置き統治していました。矢筈岳はその外国船見張りの異国方火立番所が置かれていました。

 1657年薩摩藩の通達では,

(1) 異国船を発見したら火を三つ立てること。

(2) 海岸に着船したら火を二つ立てること。

(3) 火を立てると同時に飛脚を出して次の役所に連絡すること。

(4) 昼は煙を立て,夜は火を立てるが,二つ若しくは三つ火を立て,煙をあげる間隔は10間(18mずつ)となっていました。次の番所の方向に直角に向け,狼煙の本数が分かるようにしていた。

・ 遠見番山(弁財天山)及び唐船塚

 この山は,標高180mで,昔は弁財天山とも言われて幕末の頃,外国船を見張るため番所が設けられ,藩政時代には,遠見番所や火立番所が慶応2年まで置かれ密貿易をする外国船を監視し,藩庁にのろしを上げて報告していました。また唐船塚は,薩摩焼発祥の地としても知られています。

 遠見番所は,主な航路が見張れる長島や坊津,佐多,内之浦などで,近くでは羽島や湯田の遠見番山などあり船舶の監視に当たっていました。火立番所は主に東シナ海の甑島近海を通過・着船する船を発見した場合,狼煙を上げると共に,飛脚で次の番所に通報していました。

 飯牟礼嶽(矢筈岳)は火立番所で,甑島(①遠見山)近海で異国船が発見された場合,②羽島を経由し,串木野の③唐船塚 (薩摩焼発祥の地),湯田の④遠見番山,⑤飯牟礼嶽(矢筈岳),⑥横井(清掃工場近くの番屋下),草牟田(⑦夏陰城)へと狼煙のリレーで繋がれていました。夏陰城で狼煙を確認すると早馬で⑧藩庁に知らせていました。

 甑島沿岸での第一報から藩庁まで,全行程80キロ近くを実に数十分で連絡が届いていたそうです。遠見番所は1866年(慶応2年)10月に廃止されるまで,2~3名の郷士が火立ての道具を備え任務に当たっていました。多くの薪や藁,木ぎれ,油など燃やしていました。

・ 草牟田小近くの夏陰城跡

・参考・引用文献「飯牟礼今昔話・鹿児島県史料集・麑藩名勝考・地理纂考等」

2 矢筈岳の地名について

 郷土誌によると,矢筈岳は頂上の中央がくびれ矢筈(弓矢の玄が外れないように窪みを入れた部分)に似ていたので,矢筈岳と呼んでいたそうですが,薩摩藩の正式な呼び方は飯牟礼嶽(※)となっています。江戸時代に入り,参勤交代や旅行等で大きな地図が必要になると,地名も地元の呼び方から藩の管理の元で設定されることが多くなりました。通常,山岳名は海上や街道など遠くから見た山容(目印)の呼び名を付けることが多く,海上交通の目標や漁場の山当て(三つ以上の山や岬を定めその交差する地点を漁場とする方法)に利用されていました。その際,二つの頂を持つ山で遠くから見て高い方を「矢筈岳」と言っていたようです。

 矢筈岳の麓に腰という地名があります。腰は越と同義語で,縄文時代から残る古い峠地名になります。元々山の稜線がたわんで低くなった所を「たわむ」の古語の「タワ(撓)・トウ(塔)・タオ(田尾)」が転訛し,峠を越すが語源で仁田尾や鳥越,名越,塔之原などの例があります。腰を通って海にでる峠道(街道)で,その山を越平山(矢筈岳の別称)と呼んでいました。越平山の越は峠,平は坂道の意味になります。矢筈から中岳を通って諸正岳までの尾根が並行して繋がっている地名を「並松」と呼び,その前にある諸正岳のことを「前平」(前の坂の意味)と呼んでいました。

(※) 飯牟礼の地名『地名の牟礼は,牟礼岡や大牟礼など県内にもある地名で,それ以上に県内には牟礼の付く苗字の人も多いようです。飯牟礼の地名は一般的に「飯(ご飯を盛った形)」と「牟礼(山や森)」から「飯を盛ったようなおわん型の山」と考えられます。』

 中国や朝鮮半島から入ってきた漢字を基に地名が付けられることが多いようです。しかし,導入した地域や時期によって漢字の意味や発音が異なっていました。例えば訓読みで石(いし)と言う字は,中国から入ってきた地域や時代によって石(コク)・石(せき)・石(シャク)と異なります。「牟礼」とは中国より古い時代に朝鮮半島から入ってきたと言われ,「盛り上がった山や森」を意味すると言われています。藺牟田池の外輪山「飯盛山」も飯牟礼山と同じ意味になります。正に飯を盛ったようなきれいな円錐形ですね。 

・藺牟田池の外輪山「飯盛山」

 矢筈岳は九州地方に多く,県内は出水,頴娃,屋久島など海沿いにあります。真ん中が凹んだ鞍部がある山頂ではなく,別々の頂二つが遠くから見ると矢筈に見える山岳地名です。遠見番山から見た矢筈と諸正岳(写真3)は正しく矢筈の形に見えるので,遠見番山からの呼び名で,薩摩藩の呼び方の可能性も残ります。遠見番所には2~3名の郷士が交代で勤務していました。番所は,薩摩藩直轄でしたが,津口番所や異国船番所などの設置は,表面的には幕府の鎖国政策に対応するかに見えて,その実態は,少なからず海に依存する薩摩藩の幕藩体制下に行われた密貿易(抜荷)の巧妙な隠れ蓑であったと言われています。

・ 遠見番山から見た矢筈・諸正岳

 薩摩半島には,唐船の漂着が多かく,漂着に名を借りた密貿易も盛んに行われていました。藩は唐通事の育成には最も力を入れ,海外密貿易には重要なポストでした。唐通事には,郷士格(準武士)の資格が与えられました。

 矢筈岳(頴娃)の考察

 江戸期に作られた地名には,地頭所や番所,街道があった方から見た場合には,一定の目的・用途(藩庁への報告など)があり意図的な地名も存在していました。例えば頴娃町の矢筈岳は見る方向(地域)によって山容や山名が異なっていました。高い山や長い川,海岸などそれぞれ隣接する地域で呼び方が異なっていましたが,明治期に地図作成と一緒に統一され,地名が一般化されたケースが多いようです。藩全体の地名は,藩庁から各地頭所へ指示が届き,各地域の担当が行っていました。この段階で聞き違いや漢字の当て字違いが起こったのです。例えば大浦町に「磯間岳」がありますが,本来この山に登って磯の流れを見ていた山伏が「磯見」を磯間と聞き違えて報告したと古老から聞いたことがあります。

 飯牟礼校区郷土誌によると,矢筈岳は山岳信仰の場として山伏の修験場として使われており,「頂上の形が弓矢の弦にはめる矢筈に似ていることから矢筈」と呼んでいたと言う。江戸期の薩摩の地名は麓や仮屋などあくまでも政治の中心地から見る傾向(地図上の距離や地名)が多い。私見ではあるが,矢筈も牟礼も県内に多い山岳名で,遠くから漁場等の山当て(目印)や交通の要衝になる山名に多い。よって地元から見る矢筈が越平山で,伊集院の郡や徳重から見る矢筈岳が飯牟礼岳であり,遠くから見るのが矢筈岳ではないか。

①九玉神社側(矢筈嶽)  

②青戸側(ラクダ山・鞍山)

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