石井手用水と長井田川用水(1)【R5】7月12号

1  伊敷地区の用水路造営

 藩は,新田開発と甲突川の治水のため,1806年(文化3)右岸に石井手用水を1834年左岸に長井田川用水を造営しました。甲突川左右両岸の新田開発と治水が完了すると,1840年,肥後の石工・岩永三五郎,薩摩に招かれ石橋が造られました。

 これまで城下を水害から守るため一段低くなった新上橋近くの城西地区は度々水害に見舞われました。藩主重豪は,水道施設の維持管理のため道奉行を置いて対策を講じました。用水の維持管理も一部管轄に入っており,明治2年,道奉行を廃し,営繕奉行に移すまで続きました。井堰の清掃等は年に数回,水を利用する農家や地域が一斉に出て作業をしました。この作業は昭和初期まで残っていました。(鹿児島市の歴史より)

※ 但し長井田川用水については,鹿児島市水道史に「天保5年,伊敷村長井田用水路工事」の開始時期の掲載がありますが,用水の公費造営(藩費・村費)か私費造営だったのか資料がなくはっきりせず,下に挙げる上屋用水・中屋用水・下屋用水の規模と流れは異なる可能性が残ります。甲突川は肥田橋近くから梅ケ淵辺りで流れが緩やかになり,小扇状地として新田開発に適していました。当然,この地の人たちはかなり以前から地域単位で長井田川の水を利用していたと考えられます。

・取水口(石井手用水・長井田川用水)

・石井手用水から荒田川まで 

石井手用水の取水口

・ 飯山の大田パン工場の裏側にある取水口井堰(8・6水害で崩壊)

①天然の流れるプール ~鶴田選手の金メダル(日本人初の五輪二連覇)が生まれた井堰~

「8.6水害で流された用水の残骸」大田パン工場近くの甲突川

~鹿児島市内の史跡めぐり 鹿児島市教育委員会~

・ 石井手用水近くの鶴田義行記念碑

○ 伊敷地区甲突川沿いにオリンピック水泳で金メダルをとった鶴田義行氏の記念碑があります。金メダルを二個取れた理由の一つに,天然の練習場が実家下にあり基礎練習がしっかり出来たことが挙げられます。川で泳ぐと分かりますが,水の抵抗を体全体で感じながら泳ぎ方の工夫をしていくうち,理想的な平泳ぎの泳法にたどり着いたのでしょう。さらに天然の流れるプールです。①の写真のように,堰の中は自然の河川と異なり,深さもあり安定した流れで泳ぐことが出来るのです。また,近くの用水に行くと更に早い流れの練習場があったのです。記念碑に記された「コーチから教えられるのでなく,自分の頭で考えた練習法」がこの水泳選手として大切な時期に出来たことに尽きるのかもしれません。

 ここ石井手に井堰を設置することになったのは,甲突川支流の犬迫川をはじめ多くの流域から水が一気に流れ込む地で水の勢いを利用できたからでした。少し下流の梅ヶ渕では流れが緩やかになり水圧が足らなかったのです。甲突川を堰き止めたこの地から取水した水が,一気に用水路に流れ込むので城西や西田・荒田地区まで勢いよく水が届いたのです。島津藩の財政の立て直しのために甲突川右岸一帯の水田開発のための用水路でした。宝暦治水(木曽川分流)の経験など治水技術を熟知した島津氏ならではの広域開発で発祥の地とも言えるでしょう。  

 藩の財政難の対策として新田開発~甲突川の水を荒田まで引いて開発。井手の幅四十数m,高さ2mで右岸の取水口から6.5キロ通し120ヘクタールの新田の用水として利用されていました。伊敷の飯山から肥田,小野,永吉,原良,武,荒田までの用水を引き,途中何カ所かの排水口から甲突川へ落していました。用水路の幅は約3m深さ1.5mで米俵を積んだ小舟が離合していたそうです。伊敷の飯山橋近くから田んぼを広く取るため山の尾根伝いの「くねくねした道」が石井手用水が通った所です。車社会の到来で少しずつ幅が狭くなり,現在は一部暗渠で残っていたり,完全に道路になっていたりしますが横の道と比べると不自然に曲がっているので分かりやすいと思います。

道路拡張のため用水の幅が狭められた時,石橋も調整された

 下水溝として残っている所は暗渠であっても二級河川(甲突川の支流の扱い)の指定となっています。わたしの自宅は用水路沿いにあり,新築し駐車場を道路に渡す工事で暗渠の上を通すので,一般より強い基準が求めら費用が数倍高くついたことを覚えています。

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