秀吉による太閤検地「吉田と出水の領地の変遷」【R5】7月11号

・ 天草旅行で歴史資料館の展示担当の方とお話する機会があり,江戸期の天草地方の庶民の苦しい現状や歴史について詳しく教えていただいた。また国立公園の話の中で,長島・獅子島の一部も雲仙・天草国立公園に含まれていることを話すと驚いておられた。ただその直後,長島・獅子島も元々熊本県ですからねと釘を刺された。

長島町の堂崎城

・ 確かに薩州島津家の義虎が家臣の野田城主島津忠兼に命じて,肥後国だった長島堂崎城を攻め,長島・獅子島を領地とした史実が残っている。獅子島の人の言葉にも天草なまりが残っているようだ。県境に住んでいる人たちにとって隣県の文化や習慣などは身近な生活の中に自然と刻まれているのだろう。しかし,鹿児島県人として長島・獅子島だけでなく,出水郡が熊本県に編入されていた可能性があったことを是非知ってほしいと思う。

秀吉に没収された薩州家の領地とは

1 薩州家の領地「1453~1593」
 出水・阿久根・野田・高尾野を領す
2 天領「1593~1599」
 ① 出水郡(阿久根)・高城郡(薩摩川内市の一部)
 「秀吉の直轄領
 ② 高尾野、野田、脇本、長島(獅子島)     
 「対馬宗氏
3 1599~地頭統治
 ・ 初代地頭・本田正親を任命

★ 出水5万石は天領

1 1586~87年4月 

・ 秀吉の島津征伐

2 許三官事件(義久から義弘へ)   

3 惣無事令(1585) 

・ 九州地方特に島津家に向けて制定された秀吉による大名間の私闘を禁じた法令。戦国期の争いを禁じ,豊臣政権が事実上確立したとされる。 

4 海賊禁止令(1588)

・ 同時に刀狩令

5 1592年 薩摩の太閤検地

・ 「吉田院が大隅から薩摩へ」

6 1592年 朝鮮出兵~1593年 

・ 忠辰の海賊行為や朝鮮出兵の不首尾により薩州家の改易

7  1594年 

・ 出水五万石は天領となる。

・ 海賊禁止令(1588) 南西諸島から九州沿岸の豪族による倭寇行為は中国から取締り要請があり,秀吉は島津義久に調査を依頼した。調べてみると薩州島津家がかかわっていたことが判明した。薩摩藩(特に薩摩半島南西部の武士団)が琉球や中国との交易(一部倭寇を含む)をしている事実は,当然秀吉が知らない筈はないが牽制の意味か…。

 島津忠辰によるこれまでの倭寇行為や島津宗家への反抗,朝鮮出兵での不首尾により一時「天領」となっている。朝鮮出兵での加増は認めないとの豊臣政権の方針の中,泗川の役の戦功により家康から全国で唯一加増され出水郡が島津へ戻ってきた。もし秀吉がもう少し長生きしていれば,出水(少なくとも元天草領の長島・獅子島は…)は熊本県だったかもしれない。そもそも薩州家と島津宗家との間には初代用久公以来の軋轢があり,忠辰としても島津義弘の高圧的な態度に服従することはできなかったのであろう。しかし,伝統ある薩州家を潰し多くの武士団を失ったことは,武将としての責任は大きいものであろう。島津忠辰の供養塚や三百塚を訪れると家臣団の辛さ・無念さが伝わってくる。

島津忠辰の供養塔

・ 薩州島津家は,5代実久が島津本家(宗家)との戦に大敗してから反逆的な血が流れていた。薩州家7代の忠辰(母は島津義久の長子於平)は,ことごとに本家に対して反抗しており,秀吉の朝鮮出兵時も反抗的な態度をみせたため,秀吉の怒りをかい,忠辰が陣中で病死(諸説あり)した後,出水の地は秀吉に没収され,薩州島津家は断絶されることになる。多くの家臣によって遺骨は帰郷を果たしたが,亀ヶ城近くの墓地に埋葬される許可がおりず,ひっそりとこの地に家臣たちにより葬られたそうだ。

1 出水5万石は出水領主島津忠辰の朝鮮出兵の不首尾により没収 

※ 朝鮮四川の戦いの大活躍により家康より加増で島津家に戻る(義弘加増)

2 太閤検地により大隅国吉田院は薩摩国吉田院へ変更(義弘の加増となる)

3 1599年 泗川の役の戦功により,全国で唯一加増(家康)され島津領に戻る。

~出水郷土誌上巻~

・ 秀吉の意向による太閤検地により,義久(薩摩)と義弘(大隅)の領地替えや吉田院の大隅から薩摩への国替え(結果的に義弘の加増)などあからさまな当主義久排除への動きとも言える。

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