税所敦子について(その一)

・税所敦子宅(西田温泉) 鷹師1丁目

税所敦子宅跡の説明板より

 税所敦子は文政8(1825)年~明治33(1900)年,京都に生まれ本姓は林という。幼児より和歌を好む。20歳で薩摩藩士税所篤之に嫁ぎ28歳で夫を失い薩摩にある姑のもとで孝養(親に孝行を尽くすこと)を尽くした。 
 安政4(1857)年,島津斉彬に認められ世子・哲丸の守役となり,1863年(文久3年)哲丸の死後,島津久光の養女貞姫が近衛家に嫁いだとき侍女となって京都に赴く。明治8(1875)年高崎正風に推され宮中に入る。歌集に『御垣の下草』『御垣の下草拾遺』がある。

・城西公園の薬師堂の横の六地蔵塔は哲丸の供養塔である。

 税所敦子宅は,鹿児島市鷹師1丁目の土橋病院の北隣の西田温泉に当たります。西田温泉は,子どもたちには熱すぎて入れませんでしたが,地元の高齢者を中心に親しまれた温泉でした。しかし,残念ながら廃業してしまいました。

 かつて,西田橋から水上坂までの道路沿いには,次の4カ所に温泉がありました。温泉名は覚えていません。

① 常盤町の八田知紀生家の近く  

② 西田小学校の南隣

③ 鶴丸高校の南隣        

④ 西田温泉

 しかし,これらはすべて姿を消してしまいました。鹿児島市では,後継者不足などの理由で温泉の廃業が相次いでおり,大変寂しく感じます。

敦子の刀自について

・ 諡(おくりな)について

 人は亡くなると,その人の徳や功績をたたえて贈られる戒名(仏教)や諡(神道)という死後の名前を与えられます。校歌の「敦子の刀自(とじ)」「贈り名」のことです。諡は,生前のフルネームの後ろに追加され,年齢や性別によって異なります。作詞家は戦前,副読本等に掲載された敦子の宮中に奉る位階を強調したかったのでしょうか。 

 下記の表のように,年齢や性別によって異なります。例えば,明治の「幻の宰相」と称された小松帯刀(尚五郎)は,36歳の若さで病死しました。

 彼の諡は「小松尚五郎 郎男(いらつお) 命(みこと)」となるはずです。小松帯刀伝(下巻)によると,正式な謚号は「豊御蔭玉松 彦 命」と記されていますが,「大人(うし)」でなく,若くして亡くなったので「彦」と比喩的な贈号だったのかは定かではありません。

 一方,税所敦子は74歳で亡くなっています。本来の諡は「税所敦子命」となります。しかし,明治以降は細かな区分が簡略化され,大まかな分類が一般的になりました。そのため,敦子の諡も「税所敦子刀自(とじ)命(みこと)」とされたようです。

諡(おくりな)の付け方

① 神道の諡(おくりな)の付け方

性別三 歳迄六 歳迄十五歳迄十九歳迄四十歳迄七十歳迄七十歳以上
嬰児・みどりご稚児・ちご童男・わらべ彦・ひこ郎男・いらつお大人・うし翁・おきな
嬰児・みどりご稚児・ちご童女・わらめ姫・ひめ郎女・いらつめ刀自とじ媼・おうな

② 短縮形

性別未成年の子ども大人
 比古・ひこ大人・うし
姫 比売・ひめ刀自・とじ

・神道事典より 

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