竹田市の塔の原の石幢(せきとう)【R5】11月2号

・ 竹田市の長湯温泉の炭酸泉が好きで昨年に引き続き訪れました。今回は二日間で4カ所の温泉三昧で,さすがに湯あたり気味になったので近くを散策することにしました。

(1) 塔の原の石幢

 地元の方が「八体地蔵(はったいじぞう)」と呼ぶ「塔の原の石幢(市指定有形文化財)」を見に行きました。腹痛や歯痛によく効くと言われ,地域で大切に保存されているようです。案内板がなく,市のホームページにも建立年代や由来等の説明がないことで詳しい紹介できません。通常,地蔵尊は三叉路や街道沿いに祀られていますが,墓地の入口にあるので供養塔として建てられたものかもしれません。

 凝灰岩製の石塔で錫杖と憧幡,三鈷杵らしき持物を確認できますが,印は両手を合わせた合掌だけのようで密教系のものではないようです。作られた年代もはっきりしませんが,力強く迫力のある地蔵が線刻で八体刻まれています。八体の地蔵の印(手の形や組み方)や持物(手に持っているもの)に関係性が感じられず,仏像の種類を見分けられませんでした。また,正面の二体は綺麗な状態ですが,背面の三体は尊顔など辛うじて形が分かる状態でした。廃仏毀釈の影響でしょうか。何故か一体だけ壊されて,残り二体は劣化が激しく肉眼では判別できませんでした。

・ 塔の原地区の方が,キリシタン墓地ではないかと説明しながら墓地の中を案内してくださいました。墓地には石塔がたくさんあったので,この地を「塔の原」と呼ぶようになったと教えてもらいました。しかし,塔之原・塔ノ峰など塔の付く地名は全国的に山間部の地名に多く,九重連山と阿蘇の麓を通る街道にいくつかあった峠の地名だと思われます。帰宅後ネットで調べてみると,やはり長湯温泉近くの直入(久住町古市)で交差する古道が確認できました。下の地図から久住連山の麓近くの峠から日田市に抜ける街道の一つであったと思われます。

・古代官道と駅(大分の歴史)より

※ 延喜式の諸国駅伝の豊後国駅馬として「小野(佐伯市宇目町)・荒田(玖珠町)・石井(日田市)・直入(久住町古市)・三重(豊後大野市三重町)・丹生(大分市佐野)・高坂(大分市上野)・長湯(別府市)・由布(湯布院町)」と記されているそうです。上野台地の周辺を南北に走る道の周辺にあったと推定されるとのことです。「コトバンク」より   

・ 大分県の資料によると,豊後の中心地が国分寺のある高坂駅であり,場所の特定はされていないが,大分県庁の南部の上野台地辺りに高坂駅があったようです。上野台地東端部が役所跡で竜王畑遺跡(豊後国府国司館)が高坂駅の可能性があり,和同開珎などの古貨が出土するなど,平成18年に古代道の遺構が確認されました。豊後国分寺の北東側に上野竜王畑遺跡,東側に雄城台遺跡。久代本線の古国府駅。日向に向かう戸次川は豊薩戦争の戸次川原の激戦地として有名です。ここで大友軍の敗退が大友滅亡の大きな要因となったと言われるところです。この高坂駅から大分県内に古道(日向道・豊後道)が広がっていったことになります。

(2) 塔の原の語源

 「旅人が高い山の向こう側に行く場合,通常稜線の一番低くたわんだ峠を通ります。そこに峠の茶屋や街道ができます。」このように,山の稜線の低く凹んだ鞍部(あんぶ)を「トウ」や「タオ」と言い、尾根越えの街道が通じている所を国字(日本で作られた文字)で「峠」と書くようになりました。低い鞍部は古語で撓む(たわむ)から派生した「トウ(塔)」「タル(垂)」「タオ(田尾)」などの漢字が充てられました。峠の字が塔下や山の上・下から考えられたとすれば,塔の原は「峠の麓を開墾した所」で近くの塔立(とうたて)は「峠が始まる処」と解釈するのは如何でしょうか。

 1・2面                    3(破壊)・4面

 5・6面(欠損)                 7・8面

・八体地蔵の各四面の地蔵尊

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