能因歌枕の母子島

 阿久根湾に浮かぶ,ひょうたんの形をした美しい島「桑島」は,大島と並んで位置しています。この島は,古くから「大蛇が住む島」と言い伝えられ,庶民の間では「渡ることのできない,眺めるだけの島」として知られてきたそうです。県内には坊津をはじめ江戸期の密貿易の基地址が残っています。

・ 阿久根市の桑島

 阿久根市誌によると,これは,島全体が密林に覆われ,船着き場がなく,数メートルの断崖に囲まれているため,上陸が非常に困難であるからです。しかし,もっと大きな理由として,「人を近づけないようにしたある伝説」があると言われています。

 その伝説とは,江戸時代に密貿易で取引された禁制品を,密かにこの島に隠していたというものです。寛永13年(1636),幕府は全国に鎖国令を発し,長崎港以外での外国船の出入りを禁じ,外国商品を厳しく取り締まりました。

 しかしながら,外国産の商品は高値で売れるため,商人たちは海上で密かに夜間取引を行い,関西や関東へ売りさばいていました。中でも「じゃ香」のような強い香りを放つ品は,町中に隠すことができず,人里離れた島に一時的に保管されていたのです。 幕府は当時,倉津,遠見岡,脇本に外国船の監視所を設けていましたが,桑島の西岸は地形の影響でそれらの監視所から死角となっており,絶好の密貿易基地となっていました。そして,「大蛇の島」という恐れられた伝説が,人を寄せつけないための隠れ蓑となり,密貿易の秘密を守る役割を果たしていたのです。

三国名勝図絵の母子島

 母子島とは,村の沖合に浮かぶ三つの島の総称です。それぞれ「雄島(おじま)」「雌島(めじま)」「子島(こじま)」と呼ばれ,いずれも近くに寄り添うように並んでいることから,親子にたとえて「母子島」という名がついたと伝えられています。
 この三つの中で最も大きな島が「雄島」です。地元では「大島(うしま)」とも呼ばれ,周囲はおよそ一里(約4km)ほどあります。島には松の木が多く生い茂り,堂々とした風情です。
 雄島の北西(戌亥)には「雌島」があり,地元では「桑島(かしま)」と呼ばれています。また,蒲葵(びろうじゅ)が多く生えているため,「蒲葵島(びろうじま)」とも称されてきました。
 一方,雄島の北東(子丑)に位置するのが「子島」です。こちらも「児島」や「駒島」と呼ばれています。「駒島」という呼び名には,雌雄の「親」に対して「子馬」のような存在という意味が込められており,島の形が三粒の駒(粒柱の形)に似ていることから名づけられたとも言われています。この三島のほかに,もう一つ「元之島(もとんしま)」と呼ばれる島があります。本村の海岸にほど近く,干潮のときには歩いて渡ることもできるほどです。名前のとおり,「元の島」として親しまれてきました。母子島周辺の海は,風光明媚で,わが村が誇る景勝地のひとつです。平安時代の歌人・能因法師もこの島を「歌枕」として詠んでおり,『薩摩国名所』のひとつに「母子島」と記されているのも,まさにこの島を指しています。
 寛陽公(島津光久)は,たびたびこの島を訪れては,特に「長礁」と呼ばれる場所で釣りを楽しまれました。今でもその場所は「御釣場」と呼ばれています。公はまた,七言律詩もこの地でお詠みになりました。
 ある時には,雄島に鹿を放たれたこともありました。鹿たちは次第に繁殖し,やがて百頭に達したといいます。その後,藩主が島を訪れた際には,しばしば鹿狩りも行われたようです。
 天明4年(1784年)正月には,大信公(島津重豪)がこの島に金毘羅社を建立され,3月10日を例祭日と定められました。さらに7年5月には,もともと島にあった山王の石祠を西側へ移し,あらたに社殿が建てられました。
 この島の海はまた,自然の恵みにも満ちています。春には菊海苔(きくのり),夏には赤海松(あかみる)が採れ,一年を通じて鰒魚(あわび)も漁獲されます。
 かつて,尾張国(愛知県)の風流人・竹有所という方がこの地を訪れ,「大島行」という紀行文にその時の様子を記されています。自然の美しさと歴史の重みをたたえたこの母子島は,今も昔も変わらぬ,私たちの誇りある名所なのです。~三国名勝図絵より~

密貿易の基地,桑島

 阿久根湾には大島(うしま)・桑島(かしま)・小島(こじま)・元ン島(もとんしま)などの島々があります。またそれぞれに別名もあります。大島は琵琶の形にに似ているので「琵琶島」或いは「父島(雄島)」,桑島は瓢箪に似ているので「ひょうたん島」或いは「母島(雌島)」,小島は三味線の駒に似ているので「駒島」或いは「子島」などと呼ばれていたそうです。こうして親と子が寄り添う母子島と呼ばれ地元の人たちに愛され,歌枕や図絵などに紹介されてきたのです。

 薩摩の東シナ海沿岸は昔から交易(密貿易)が盛んでした。商人たちは島に庶民を近づかせない為に「くゎ島」「か島」などと呼んだと伝えられてきました。明治になりこの「くゎ」や「か」が訛って「桑島」の字があてられた島名になったようです。

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