藤原惺窩が滞在した正龍寺
山川港湾奥の旧正龍寺は,「海雲山正龍寺」として知られ,山元氏の創建と伝えられています。由緒書によれば,明徳元年(1390)名僧・虎森和尚が招かれて再建にあたったとされています。また,薩南学派の流れをくむ僧である郁芳春本や月渓崇鏡,問得,文岳など,多くの名僧を輩出した寺院でもあります。
正龍寺で特筆すべきことは,慶長元年(1596年)6月,35歳の藤原惺窩(近世儒学の祖)が訓読法を学ぶために明に渡ろうとし,鬼界島(硫黄島の可能性)に漂着しました。その後山川に引き返して,風待ちでしばらく滞在したこの寺で薩摩の訓読法に出会ったことです。
私はこれまで,県内の「山川石の六地蔵塔や宝篋印塔」の調査や「藤原惺窩が滞在した寺」ということで,正龍寺跡はよく訪れていました。ここの墓石群は,概ね綺麗な状態で残っており,訪れ調査するたびに廃仏毀釈の難をどう逃れたのだろうと感心することが多かった記憶があります。
・俣川洲(またごし)~山川石誕生地
・ 山川石が露出した地層
桂庵玄樹が考案した訓読法
そして,この寺で学僧が子弟に教えていた訓読法(桂庵玄樹が100年以上前に考案した法)に接して,大変驚きました。自分が思い描いていた以上の訓読法が既に存在していたのです。惺窩は中国に渡らず,この訓読法を盗用して京に持ち帰り,改良を加えた訓読法「四書五経倭訓」を全国に広めたとされています。(伊地知季安の漢学紀源)
京都五山の儒学と江戸幕府の官学(朱子学)との対立
(1)学問の中心地京都五山
・ 南禅寺(五山別格)
・相国寺(第二位)
・ 東福寺(第四位)
かつて儒学は,「漢字がぎっしり詰まった漢文」を読み解くことから始める学問でした。これでは「文法や漢字そのものが異なる中国語」は読めず,子弟のために漢文を日本語に訳す訓読法の必要がありました。その後,14世紀後半から京都五山寺院を中心に訓読法が研究され,岐陽方秀から桂庵玄樹へと続きました。特に1467年から6年間,中国に留学した桂庵が薩摩で広めた「薩南学派」の教えが花開き,日新公の「いろは歌」が生まれるなど,薩摩武士の学問の礎となり,明治維新へと繋がっていくのでした。
(2)徳川幕府の官学(朱子学)
一方,惺窩の弟子の林羅山は,家康をはじめとする将軍4代に仕え,初期の江戸幕府の学問の土台作りに大きく関わりました。やがて惺窩や林羅山の教えが徳川幕府の官学指定により,仏教を嫌っていた江戸の儒学者たちが,長い間「歴史ある五山学統の存在」を無視し,江戸では京都五山の訓読法は忘れられていました。
「国語や漢文の神様」桂庵玄樹
(3)薩南学派
現在の漢文で習う「句読点・括弧・返り点・レ点」などの内容は,元々薩南学派で用いていた訓点法に似ており、桂庵玄樹の訓点を更に南浦文之が工夫改良した文之点に近いものであったのです。幕末になり,伊地知季安が研究調査した「漢学紀源」により判明し,京都五山文化や薩南学派が見直され,桂庵玄樹がみごと蘇ったのです。そして明治以降更に研究が進み,桂庵玄樹は「国語や漢文の神様」と,称されるまでになりました。正にその分岐の場がこの正龍寺であったのです。
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