蒲生町の先輩のエピソード
昭和50年代後半の頃の話です。職場の飲み会にほとんど参加しない蒲生出身の先輩がいました。私も何度か個人的に飲みに誘いましたが,いつも都合が悪いとの返事でした。
ある時,彼がしみじみと語った飲み会に行かない理由が衝撃的で,今の時代にも古風な考え方が残っていることに驚きました。それは,父親が早くに亡くなり,彼が家長として家族を支えていたことに起因していました。彼が仕事でどんなに遅くなっても「この家代々の家訓であるから」と,母と妹は風呂にも入らず,食事もとらないで帰宅するまで待っていたそうです。帰宅が夜の11時近くになっても待っているのです。今日は仕事で遅くなるから先に夕食を食べていてねと何度話してもだめで,とうとう職場の飲み会に参加出来なくなったと言うことでした。江戸時代の薩摩藩でもあるまいし,「食事は父親が箸を付けてから…」「風呂は男から…」などの風習が未だに残っていることが驚きでした。何度説明しても,母親は「あなたはこの家の家長なのです」の一点張り。歓迎会と忘年会だけは仕方なくホテルに泊まって参加していたとのことでした。
今回,「かもうおごじょカレンダー」に目を通すと,この母親の一途な姿勢には裏がありそうです。彼が言っていたことの中に,どうも妹は風呂にも入り食事を済ませていたようだとの話を聞きました。また,父親も生前よく自宅にいたので,友人の父親のように外に出かけないのかなと思っていたそうです。そして「かあちゃんが煩くて飲み方にも行けんが…」といつも愚痴っていたとのエピソードも聞くことができました。かもうおごじょカレンダーに一つ付け加えるならば,「家訓を厳守したふりをして,夫を拘束すること」は如何でしょうか。
・ 蒲生地頭仮屋門
蒲生は日本一の比率が高い武士階級
全国の武士階級の比率が5~6%である中,鹿児島ではその割合が驚くほど高く,何と26.4%に達しています。この異例の高さは,薩摩藩が持つ独自の外城支配に起因しています。具体的には,地方の仮屋に近い麓集落に郷士を配置するという薩摩藩の外城制度が広く知られています。
この制度により,鹿児島では三人に一人が士族となっており,その比率が全国平均を大きく上回っています。さらに,麓の外側の村々にも在郷士(ざいごうし)が存在し,彼らは禄を受け取ることなく自ら耕作して生活していました。このような郷士制度が,鹿児島の武士階級の比率が高い一因となっています。藩は在郷士に俸禄も与えず,支配していたのです。いわゆる季節労働者で戦の時だけの招集されるいわゆる「タダ働き侍」です。
大隅国蒲生は交通の要衝地
ここ蒲生は,古くは大隅国の境で北薩摩・南薩摩・大隅の中継点として,交通の要衝でした。この地域では,出水と同様に国境警備の武士団が必要とされ,歴史的な背景から士族の割合が鹿児島の中でも特に高かったのです。実際,半数以上が武士階級であったことが伝えられています。
当然のことながら,この武士階級の生活は厳しく,それが婦人たちにも厳しい生活習慣が求められることとなりました。この歴史的な背景を基にして,蒲生で育まれた婦人たちの生活様式は,厳格であると言えるかもしれません。その中で形成されたのが,婦人心得として知られる生活の指針であったのかもしれません。
・ 蒲生の武家屋敷通り
薩摩の郷中教育
薩摩の子弟は,郷中教育において,徹底的に考え方や生き方などを鍛えられました。「道端で泥棒を見たらどうするか」「切り捨てます」「それが自分の父親だったらどうするか」「…?」「たたっ切ります。」「それは忠義に反するのではないか」「ではそれが殿様であれば…」「殿様がそんなことをするはずがありません」「したらどうするかと聞いている」「私が切腹します」「あほか」といったように,即座に究極の判断ができるように鍛えられていました。
この厳しい問答の中で,薩摩の教育は道徳や忠誠心,忍耐力などを強調し,武士としての精神を徹底的に養うことを目指していました。薩摩の武士たちは,極めて厳格でありながらも,その強靭な精神力が困難な状況においても冷静かつ迅速に判断できるようにしていたのです。
議を言うな
薩摩においては,「議を言うな」という教えが広く知られています。この教えは,年長者に歯向かうなと理解されていますが,実際には「議論を尽くせ,そして一旦決まったことについては義を言うことは許さない」という意味合いに近いと考えられます。
もちろん,年長者の中にも裏切りや悪事を働く者も存在するため,ただ盲従するのではなく,議論を通じて正しい判断を身につけることが必要であるとの教えです。若者たちを育てる上での重要なポイントは,議論で先輩を打ち負かすほどの力をつけることです。他者の意見に惑わされず,生死にかかわる状況で冷静な判断ができるようになることが求められます。この教えは,建設的な議論を通じて知恵を深め,強靭な意志を養成するためのものと捉えられるべきだと考えています。
男尊女卑の薩摩
薩摩武士は,洗濯物も同じ物干し竿に男女一緒にしないと聞いたことがあります。①風呂は男が入ってから女が入る(血で汚れる・血は戦での死を想起させる等々の理由から主に戦国時代に広まった風習) ②男女の出入り口が違う ③洗濯物のタライや干し竿が違う ④食事の中身が違う,家長が箸を付けてから食べる(戦でいつ死ぬかもしれない)
※ 勇猛果敢な島津武士団と言うよりは,残された家族のことを常に考えていた武士団。戦での約束事が多く,戦死する可能性が日本一高い島津の武士団でした。(敵を一人も殺せなかったら死罪etc…)
かもうおごじょカレンダー(婦人心得)の背景
明治政府が廃藩置県,秩禄処分,廃刀令を断行したことで,全ての武士階級は失業しました。特に武士が多かった鹿児島では反発が強まり,それが西南戦争の引き金となりました。蒲生町の麓地区も藩内一多くの武士を抱えていたため,戦争の敗北は大きな試練となりました。
しかし,「転んでもただでは起きない蒲生の婦人たち」夫の仕事が失われた家庭を支えるため力強く立ち上がりました。婦人たちは奮闘し,畑仕事から商売まであらゆる仕事に取り組みました。また,各家庭が「ゆい」の精神で協力し合い,共に困難に立ち向かいました。 「蒲生婦人心得百ヶ条」は,この時代の蒲生の女性たちが培った知恵と経験の結晶であり,彼女たちのたくましさと共同体の力を後世に伝える貴重な資料なのです。
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