薩摩の琉球征伐「秋徳湊の戦い」

 徳之島勤務時代に知り合った平山家の方から,首里之主一統の系図「大殿地祖先系図」のコピーを手にいれました。本県においては,琉球国による奄美征伐や薩摩による琉球征伐に関する史料が非常に少ないなか,当時の状況を知る手がかりとしてこの系図に含まれる「三家録」の中の「秋徳湊の戦い」は大変貴重な史料なのです。

 まず,首里之主一統とは,琉球王家から奄美支配の一環で徳之島に派遣された一族であるようです。家系図には為朝と大里按司の妹との間に舜天が誕生し,1186年に初代王となった一族であると記されています。舜天王統は第3代までの73年間続きましたが,1259年に中山按司の謀反によって終わりを迎えました。英祖王が王位に就くと,この一族は下野に下りました。しかし,その後も1429年の第一尚氏,1462年の第二尚氏王統がクーデターにより誕生しても,王府もこの一族を認めていたのでしょう。王府関係の職に携わりながら生き延びていました。そして,1562年には首里之主として見事に復活を果たしました。

※ 初代王舜天の下りは薩摩半島から奄美・沖縄諸島に残るもので,江戸初期に薩摩藩が作らせた為朝伝説のようです。江戸期の曲亭馬琴「椿説弓張月」などで広く知られるようになりました。 

 本系図では2代目「西世之主」を数えておらず,現在当主は14代ですが,本稿では首里之主一統の当主として数えるものとします。系図のように家督を必ずしも長男が相続していない理由の一つとして,薩摩藩により徳之島の東(徳之島町)と西(伊仙町),北(天城町)で広く新たな土地を開墾している関係が考えられます。島役人を世襲によって強大にさせない藩の画策「戦国期に地方豪族に対して藩がよくやっていた転封処分」は江戸期には余り見られません。噯での主な役職については当初は琉球王府が決めており,江戸期に入ると薩摩藩が決定するようになった関係から複雑になったようです。第7代の白満翁の代に墓地や大殿地も徳之島町から伊仙町に移っています。

 薩摩藩の門割支配の中に,一定の年期毎に割替え(所替え)を行っています。これは水利や日当たりなど割り当てた土地の違いによって不公平や不満が出ない様にする意味合いが大きかったのです。本国の門割制度に似た仕組みを整えようとしていた可能性も否定できないように思われます。 

※今後の研究課題ですが,代官や若い藩役人と島役人(島妻)との関係は記録に殆ど残っていません。婚姻(?)によって,藩役人の力関係に影響を及ぼしており,徳之島に鹿児島士族の「伊集院・樺山・町田・山田」等の姓が多く存在しているのも事実です。 

・大殿地(伊仙町)

首里之主一統「永喜・平・平山家」の流れ

・300年ガジュマルで有名な阿権平家

 この首里之主一統の松山墓地は,明和7年(1770)8月23日,8代佐栄久翁が死去したので長男の大富山(平山家初代)が造営して以来一族の墓地となっています。なお平山家(伊仙中隣)と平家(阿権八幡神社隣)は独自の墓も所有しています。佐栄久翁は,天和3年(1683)白満翁の長男として諸田に生まれ,元禄3年(1690)白満翁が伊仙噯与人に任命されたので,父に従って伊仙に移り大殿地(当主宅のことで殿地は別に記す)に居住し,成人して黍横目喜念与人等を勤め,今日のように子孫が繁栄したようです。この一族の多くが島の主な役人(与人・横目・通事)を勤めており,薩摩藩の徳之島代官の記録と併せて読むと,公式文書とその裏側を知ることができ面白い内容になっています。

・第8代佐栄久「1683~1770」88才没

・第7代白満(白間)「1659~1737」の墓「徳之島町諸田の松山墓地」

 1562年に首里之主が徳之島町徳和瀬海岸に着いたことがこの松山墓地の石碑に刻まれています。江戸期に入ってからも琉球王国及び奄美の年号は,中国式と日本式年号両方を併記していました。中国との配慮から薩摩藩も認めていたようです。嘉靖(かせい)41年は明の元号で,日本年号永禄5年で西暦1562年に当たります。

藩政時代の徳之島6行政区「噯」

①岡前噯(岡前)②井之川噯(井之川)

③兼久噯(兼久)④亀津噯(亀津)

⑤喜念噯(目手久)⑥伊仙噯(伊仙)

・6噯(役所)と3間切

~義岡明雄氏の史料から~

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