薩摩の琉球征伐「秋徳湊の戦い」その2

1 はじめに

 「伊仙歴史民俗資料館」の資料によると,道の島(奄美諸島)が琉球の支配下に入った時期についてははっきりしないようです。琉球による大島討伐以降,奄美の島々には琉球王府から役人が派遣されたり,現地の按司を役人に任命していました。それ以前の13世紀には奄美諸島が琉球に入貢した記録もあるものの,道の島まではその勢力は及んでいませんでした。その後,沖永良部島と与論島が沖縄北部の北山王国の勢力圏に入り徐々に琉球の影響を受けるようになりました。

 なお,14世紀初頭,得宗家被官の千竃文書には徳之島を含む奄美諸島が相続対象となっているのは河辺郡司職として大島から徴収できる権益上のことで,実際徴収していたかは不明である。当時は奄美や徳之島は「按司世」と呼ばれている時代でした。

 沖縄では1429年に三山が統一され,①1450年頃から喜界島は琉球王国の攻撃を受け始めました。長年にわたる抵抗もむなしく,第二尚氏王統成立以降は実質的な支配を受けるようになりました。そして,中山世鑑に記されている②1466年の喜界島討伐以降,琉球王国は奄美全域を支配し,那覇に泊地頭を置き,奄美群島各地に年貢の納付を命じました。この時期は「那覇世」と呼ばれています。

 その後,③1537年の第一回大島討伐および④1557年の第二回討伐により,道の島(奄美諸島)は概ね平定され,王府は奄美の按司の動向や各島の状況等を掌握していました。1562年に初代大親役が派遣された時,徳之島の按司による抵抗もなく平和裏に着任することが出来ました。⑤1571年の第三回討伐では,最後の北部大島討伐が行われました。このように大きく5回の琉球王国による奄美征伐が行われています。この時期は,西日本の有力大名が勘合貿易の安全な航路開発の上で奄美・琉球の存在が重視されたことと重なります。

 また宮古島や石垣島,台湾に近い与那国島などもそれぞれ支配者がいて独立していました。奄美征伐と並行して1500年~1522の間に各島を征伐して支配下に組み入れています。

三家録に描かれた秋徳湊の戦い(現代語訳)

2 薩摩の大島侵攻 

 琉球統治の時代,首里の王府から任命された侍が徳之島の大親役を務め,亀津の仮屋に住み,子どもも生まれました。その後この大親は亀津の仮屋から秋徳(亀徳)に移り住み,さらに佐安元所(秋津神社)に隠居しました。亀徳の秋津神社は,首里之衆が隠居していた場所で,彼がそこで病死した後,その子ども(西世之主・東ヶ之主)がそこに住み続けました。

 1609年春,薩摩藩は琉球征伐のため軍兵3000人,軍船75艘で山川湊を出航しました。亀徳湊沖は船団が到着すると,秋徳湊は菜種の黒い粒が海面一面に撒かれたようにおびただしい数の船団が,帆を重ね,旗印が風にはためき,武器は日の光を浴びて黒く輝いていました。亀徳湊沖は雲霞のごとく港の入り口から内浜まで船で埋め尽くされていました。

 すぐに大将(樺山・平田)の乗っている船を中心に前後左右に兵船が配置されました。船同士は鳶口で繋がれ,矢倉幕が張られました。大将は床机に腰かけ,その威風はまるで天神のようでした。

 左右の武将たちも身なりを整え、鎧を着け重々しい態度をとって控えていました。また数千人もの兵たちも鎧の袖が連綿と重なり合って,兜の星が輝いていました。それはまるで桜の花の紅葉が散って地面を覆っているようでした。一斉射撃の準備が整うと,先陣の兵船から脅しのための鉄砲を陸に向けて撃ちかけきた。雷のように乾いた火縄銃の音が島人が並ぶ砂浜に轟きました。

・ 尚真王の陵墓「玉陵」 

 その時,軍船の武将が大声で「薩摩から琉球国司が借り入れた借金(朝鮮役で島津が肩代わりした軍役負担分?)の返済がない。司官虵那(江戸初期の三司官・謝名利山)が難渋しているのであろう。かってなことを申し出ておったが,無礼にもその後音沙汰も無くなったのだ。今回やむを得ず征伐するために数万の軍兵を率いて渡海してきた」と言うのです。「まずは道の島を攻め取り,その後琉球本島を攻め討っていく。大島はすでに抵抗せずに降参して薩摩に降りた。だから徳之島も異議がなければ大人しく降参せよ」と薩摩側に告げられたのです。 

佐武良兼掟の申出

 これを受けて佐武良兼掟(首里之主一統4代目)は答えました。「徳之島の大親役(東ヶ之主)は最近病死したので,現在は沖永良部島の大親がこの島の政務を兼務していますが,今は沖永良部島におり留守でございます。また琉球国主からは未だ何の連絡もありませんので,お申し出の件を受け入れることはできません。

 三司官虵那(謝名)親方が薩摩に迷惑をかけたことについても,何も知らされていません。謝名親方のまずい対応や借金の件についても彼一人がやったことであり,道の島全体が降参することは,臣下として主君を裏切ることになります。この島をなおざりにするような軽はずみな判断はできません。どうかご理解くださり,これから琉球王府へ直接行かれて問い正してください。そこで謝名親方のやり方が悪かったと王府が判断したなら仕方ありません。

 話の決着がついた時には,お互いに書面でやりとりし送ってくだされば,その合意に謹んで従います。本当に国府から何の許可もいただいておらず,徳之島を無理に攻められても我々は降参することはできません。どうか「我々の家臣の立場を御理解の上,島の者が大義名分を立てられるようにしてください」と,大和口まじりの徳之島方言で声高に申し上げました。

※「喜安日記」によれば,当時王府から派遣された役人(輿那原親雲上?)が密かに徳之島に来ており,戦後交渉を有利に運ぶため,徳之島の地で抗うことの指示があったようです。

・琉球舞踊

 この訴えがどのように通じたか,兵船の前後左右から声が上がりました。「しょうもない。いちいち尋ねたことに答えることは無用だ。今すぐ討つべきだ」と一斉に鉄砲が放たれました。

秋徳湊の戦い

3 徳之島掟兄弟たちの戦い  

 佐武良兼掟は「仕方ないな。こうなったらみんなの命のある限りここを退かず,浜の砂を枕にして必死に戦い,勝負を決めよう」と申し合わせているところに,薩摩の船団から弓や鉄砲が激しく撃ちかけられました。そして,槍や十手など接近戦用の寄り道具を持って陸へ押し寄せてきました。

 ちょうどその頃,村中では朝飯に栗や米の粥を作っている時でした。突然の襲撃で,百姓たちは大いに騒ぎ立ち,老若男女が親を抱き,子どもの手を引き,鍋を持って慌てながら四方八方に逃げていきました。朝飯に炊いていた粥も道や坂に落とし,こぼれて流れ出ました。

 飲まず食わずで逃げ惑う百姓たちは,口々に「どうしよう。死ぬのかなあ。親孝行はどうなるのかなあ」と嘆き悲しみ,慌てふためき蜘蛛の子を散らすように,年寄たちは這いつくばって逃げていきました。そんな姿を見た薩摩の兵は笑い侮り,逃げ惑う人を踏み倒し攻め込んできました。

 物陰や岩の陰で亀徳湊を守っていたのが思太良金(佐武良兼)たちでした。彼は若い頃から掟役を務め,弟の坊太賀那(思呉良兼)と共に徳之島の旧大親(東ヶ之主)と先妻(ノロ宮明)の子どもでした。兄弟は共に誠心誠意勤め,忠孝を守り義心を重んじ全ての人に睦まじく,掟として慈悲の政治を行っていました。その志は厚く勇気もあり強い若者だったため,村人みんなに推されて大将となっていたのです。

 彼らは持っていた馬牛の皮でできた皮包みや腹巻で装束を整えていました。浜に陣幕を張り巡らし,狩道具を揃えて軍器に備え,三尋余り(長さ1.8m)の棒を手にとり進み出ました。大勢の軍勢を見て,勇んで長棒を水車の如く振り回したのです。その力は槍や長刀で千や二千の敵を立ちどころに打ち取るほどでした。

 彼は軍士や主内衆,その外七島の主立った者数十人余りを打ち倒し,なおも大勢の中に突っ込んで,右往左往して敵を打ち散らし追いかけて回しました。その勢いはあたかも雷で耳をつんざくような大きな音で,誰も近づき立ち向かうことができませんでした。やがて敵を浜の波打ち際へ追い詰め,退避する場所もなく,渡し舟に乗り込むこともできずに慌てふためく敵兵を,手を伸ばして歩兵の後ろから上帯を掴み地面に叩きつけました。そして,敵を海に投げ込み,紺青の海に波の輪が広がるように見事に打ち勝ったのでした。

 そればかりか,激しい流れに巻き込まれ溺れそうになりながらも,本船の網に取り付き救命を求める者や,渡し舟に助けられ痛みをこらえている薩摩兵もいました。敵兵を波打ち際に追い込むことで鎧姿の敵の動きを止めて戦う掟たちの働きは見事なものでした。  

 一方,他の仲間も山刀や六尺棒,斧,手斧,鎌,包丁など,個々の持ち道具で必死に戦い,多くの敵兵を陸で打ち倒しました。何しろ,薩摩軍団は甲冑で身を固めた武者で,容易に討ち取ることはできなかったのです。その様子を軍船からも見かけていた敵兵も,敵味方の雑兵が入り乱れているため,弓や鉄砲を撃つわけにもいきませんでした。

掟兄弟の死

 戦いをしかける大将(佐武良兼掟)の威圧は疾風雷光のごとく凄まじく速くて,豪傑が馬に乗って一人で突っ走っているようでした。そのため,槍や刀では近寄れないので,弓矢や鉄砲で討ち取るしかないと判断した庄内の武士,渋谷丹波守が進み出て,佐武良兼の胸元を鉄炮で狙って命中させました。

 「船から降りてきて正々堂々と勝負を決めようと言ったのに,船上から鉄砲を放つとは卑怯でけしからん」と,思太良金(弟)は軍船に向かって徳之島方言で罵倒しました。口惜しさから前にあった石を一打ちで真っ二つにして見せました。しかし,傷口から血が噴き出したので,一旦戦場から引き下がり,綿布で身を包み腹巻にして手当をしました。それから再び飛び出して行きましたが,内臓が破れる致命傷を負っていたため,口や鼻からも血を噴き出し続けました。勇者であってもどうしようもなく,惜しくも壮絶な最期を遂げてしまいました。兄は身の丈7尺2寸(2m18㎝)の大男で若武者でした。薩摩の兵は兄の死を見て勢いを増し,凱歌を歌いながら船から一斉に陸へ黒い波のように攻め込んで家々まで入り込む「乱取り」で悲惨なことになっていました。 

 弟の坊太賀那は「今日,我ら兄弟は死をもって琉球国に報うつもりである。家族の者にお前たちは母や妻子を連れ,戦地から遠い諸田村へ逃げなさい」と言うと,大勢の敵軍の中に飛び込み,勇気を奮って戦いました。しかし,気持ちはいくら強くても武具がなく,武装した薩摩の軍団は強大でした。ただ皮を巻いただけの島の武者たちは,敵の槍や太刀の傷を負い憐れむべき運命で,ついに乱戦の中で弟も戦死しました。彼もまた大柄で屈強な若者だったのです。

徳和瀬製糖工場と右山手の松山墓地

篠川出身の勘津の活躍

 大島篠川出身の勘津は,若い頃に徳之島の亀徳へ渡ってきて,旧大親役(島主)である東ヶ之主の家で世話になり,厚い恩恵を受けていました。その後,子どもも生まれた彼は井之川に移り住みました。徳之島侵攻の際,70歳を超える高齢でしたが,恩を忘れることなく旧大親の子どもたちと一緒に戦い見事戦死しました。七島の中でも勇者として知られた吉兵衛・彦九郎早佐衛門・助四郎仙太夫・仮名小松兄弟のうち,吉兵衛もその時に戦死したのです。

 樺山大将から,軍兵に対して「民百姓の財宝を略奪するような乱妨取りはするな。もし,これに背く者がいれば軍法で処罰する」との命令が出され,ようやく騒ぎは収まりました。 この時,徳之島の掟兄弟は亀徳で戦死し,彼らの子供たちは孤児となり苦労していました。

 沖永良部島の大親役は掟兄弟の母と再婚していたので,自分の子ども同様に可愛がり育てたのです。また,亀徳の佐安元の家は沖永良部大親の子どもたちに受け継がれ,東ヶ之主の子どもたちは諸田村(製糖工場近く)へ引っ越しました。沖永良部大親は,亀徳港で日和を待ち,やがて朝露も晴れ,順風に恵まれた時,亀徳港から碇を上げ,沖永良部島へと帰っていきました。

※ 三家録の原文をもとに現代風に簡潔に訳しています。

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