最近の学校のホームページは,個人情報保護の影響で掲載内容が減り,保護者や卒業生にとっては物足りなく感じることが増えているように思われます。子どもが特定される記事や顔写真はもちろん,遠景の写真やぼかしが入ったものまであり,無理に掲載しなくてもよいのではと思うこともあります。
また,学校沿革や歴代校長,PTA会長といった情報が削除されるだけでなく,何故か校歌まで掲載を控える学校も増えています。
卒業生の稲盛和夫さん
そんな中,2年前に亡くなった京セラの稲盛和夫氏が,西田小の記念講演で「伸ばす心の一筋に 強く正しく美(うるわ)しく 行手幸あり光あり」の部分を取り上げ,この校歌の歌詞は,真・善・美を求める心のあり様はすばらしい「世界一の校歌」と絶賛したそうです。
この記事が話題になり,校歌も紹介されていました。鹿児島を代表する経済人である稲盛氏の影響力もあり注目されたのでしょう。とはいえ,校歌の価値は人それぞれであり,誰しも自分の母校の校歌こそが一番であり,思い出のある特別なものであると思うのですが…。そこで,西田小と小山田小の校歌をご紹介します。

・西田小ホームページより
鹿児島市立西田小学校校歌
作詞・救仁郷断二 作曲・前田久八
校 歌 | 現 代 語 訳 |
一、晨(あした)うららに 武の丘 照らす誠の 影させば 南洲翁を 仰ぎつつ 伸ばす心の 一筋に 強く正しく 美(うるわ)しく 行手幸あり 光あり | 朝一番に爽やかな光が輝き照らすのは校庭から見える武の丘です。光があれば影もあります。私たちはそれを埋めるように西郷どんの精神を仰ぎながら,ひたむきに精神を伸ばしていきます。「強く,正しく,美しく」(校訓)の如く,誠実さや正しさを持って力強く生きていけば,その先には幸福があり,光があるのでしょう。 |
二、夕月冴えて 甲突の 川のほとりに 輝ける 敦子の刀自を 慕いつつ 清き心を 心とし いそしむ我等が 学舎は 行手幸あり 光あり | 美しく映えた夕月が,甲突川のほとりに輝いています。その光に孝養を尽くした敦子さんのような高貴な女性を慕いながら,その清らかな心を胸に,子どもたちが勤勉に励みます。そのような子どもたちがいる学び舎は,私たちの未来の幸せを願って光輝いているようです。 |
西田小の校歌が生まれた時代
『郷土人系』によると,大正時代の鹿児島県の教育界は,鹿児島一中(鶴丸)や二中(甲南)のライバル関係に加え,明治後期に創立された川内中・加治木中・川辺中・志布志中などがしのぎを削り,群雄割拠のありさまでした。さらに大島・出水・指宿・大口・伊集院・種子島などにも学校が次々と設立されました。
受験準備の補習授業
この競争はやがて尋常高等小学校にも広がり,鹿児島市内の高等小学校(現中1・2年生)では受験準備の補習授業が行われるようになり,各校が対抗意識を燃やしていたそうです。一中や二中への合格者数が「学校の格付けランキング」に直結すると,校長自らが補習授業の指導にあたることもあったといいます。
大正13年,県の教育委員会は「補習授業は子どもの健康に悪影響を及ぼすため,ただちに中止するように」と禁止協定を出しましたが,現場ではほとんど守られることはなかったようです。
各学校長は校門に見張りの先生を配置するなど警戒していました。昭和8年には,当時最先鋒の白石校長がいる西田小を県教委の担当者が,裏門からこっそり学校に入って現場を押さえたのです。そして時間外に補習をしていた高等科担任の3名を見せしめに大隅の学校へ飛ばしたという事例が発生したのです。現在であれば,県教委に抗議の電話が殺到したかもしれません。
それでも,鹿児島の大規模校を中心に,その後も補修授業は続いていたそうです。その中に救仁郷断二(西田小校歌を作詞)や片山久(小山田小校歌を作詞)らもこのグループの一員だったのです。ですからこの二つの校歌は同じようなコンセプトで作った可能性もあると思われます。なお,救仁郷は大正9~昭和15まで西田尋常小に勤務して,後に大崎町の町長になっています。
また,両校の校歌を作曲した前田久八(明治7年~昭和18年)は東京の音楽家でしたが,当時,明治学院大学をはじめ,全国の大学や高校などの校歌を作曲するなど,全国的に活躍していた作曲家です。大正12年の関東大震災で自宅と職を失い,音楽仲間を頼って一時期鹿児島にやってきていたそうです。その際,小山田小学校や西田小学校をはじめ,いくつかの学校の校歌の作曲を依頼されたそうです。(敬称略)

・小山田小ホームページより
小山田小校歌(昭和3)
作詞・片山久 作曲・前田久八
校 歌 | 現 代 語 訳 |
一、 澄みて流るる甲突の 水と清さを競いつつ 高き理想を輝かし 強く正しく美わしく 心の鏡いや磨く 楽し学舎 小山田校 | 清らかに流れる甲突川の水とその美しさを競い合いながら,私たちは高い理想を輝かせ,強く正しく美しくあることを目指す。心の鏡を絶えず磨き続ける,それが私たちの学び舎,小山田校。 |
二、 姿雄々しき桜島 遥かに望む校庭に 手足を鍛え伸ばす時 力五体にみなぎりて 吾等の意気やいや高し 楽し学舎 小山田校 | 雄々しい姿の桜島を,遠くに望むこの校庭で,手足を鍛え,伸ばしていくとき,全身に力がみなぎり,私たちの士気はますます高まる。ここは楽しく学ぶ場,小山田校。 |
三、 いざや吾が友手をとりて いそしみ励まん諸共に 希望吾等の窓に燃え 光輝吾等の門に映ゆ いでや不断の努力せん 楽し学舎 小山田校 | さあ,友よ,手を取り合い,共に励み,努力しよう。希望が私たちの窓に燃え,輝きが私たちの門を照らしている。さあ,絶え間ない努力を続けよう!ここは楽しく学ぶ場,小山田校。 |
戦前までの特徴を持つ二つの校歌
二つの校歌に共通するキーワードとして,「甲突川」「強く正しく美わしく」「いそしむ」「学舎」「光」などが挙げられます。これらの校歌は,同じ戦前の時期に作られ,作曲者も同じであることから,共通した表現が見られるようです。
一方で,西田小の校歌には「南洲翁」と「税所敦子」が大きく取り上げられている点が特徴的です。また,「桜島と武の丘」という表現のほか,「いそしむ我等が 学舎は行手幸あり 光あり」や「いそしみ励まん諸共に 希望吾等の窓に燃え」といったフレーズにも表現の違いが見られます。
また,「敦子の刀自を慕いつつ」の「刀自」は,ご婦人・奥方・御方・貴女・お母上などの意味を持っています。通常「税所敦子刀自」と表記しますので,「の」を付けると「税所敦子の御婦人」の意味になるようです。「の」を付けた意図について何か他にあるのか明確ではありません。戦前,敦子の話が終身の副読本に採用されており,刀自という敬称を強調したかったのでしょうか。
明治期から戦前までの多くの校歌がそうであったように「校風を発揚し児童,生徒にこれらを認識させる」役割があり,校歌の作詞にはある種の決まりごとがあるようです。例えば「教育方針や校訓などを取り入れる」「忠孝の教えや至誠一貫の精神などたゆまぬ努力を取り入れる」戦時中は特に顕著でした。校歌の歌詞も古くなり,戦後処理が収まった昭和30年代に新しい校歌に変更し「愛校心の発揚や教育理念の賛歌」や「地域の名勝地」など取り入れた学校が多いようです。
今回取り上げた二つの校歌は戦前の典型的な内容で,現在では珍しい歌詞といえそうです。戦前の同じグループの教員仲間であった二人の作詞家と同じ作曲家によって作られたようです。
西田小の校歌が作られた当時,白石校長や救仁郷,片山らの思いが深く込められていました。また,「西田小~城西中~鶴丸ライン」という伝統は,後輩たちに受け継がれ発展してきました。また,県内各地から噂を聞きつけた保護者が,我が子を西田校区に下宿させ「城西・鶴丸」ラインに乗せた程でした。そのようなこともあり,城西中は生徒数3000人を超える日本一のマンモス校になり,昭和50年初頭までは,城西中の卒業生が鶴丸高校合格者の半数を占める時代が続いていました。
校歌は,学校設立の原点であり,学校の沿革は,多くの職員や卒業生,そして地域の支えによって築かれた歴史と成果の証です。校歌を語るだけで,多くの先人たちの思いや努力が伝わってきます。だからこそ,せめてホームページには校歌を残してほしいものです。