石井手用水
甲突川右岸の石井手用水(二級河川)は,昭和初期まで田の用水や洗濯などの水として使っていました。近くの人たちが年に数回底ざらい作業をしていたので,水は綺麗で流れも速かったと聞いたことがあります。
基本的に幅3メートル,水深1.5メートルほどの規模で,かつては俵船がすれ違っていたそうです。昭和の初期頃から交通量の増加等によって川幅が半分程度になり,現在はほぼ暗渠になって分からなくなりました。当時用水路には冊がなく,自転車ごと落ちたこともあり血まみれになっていました。

・太鼓橋の形は,俵船が行きかうため
黒田川
この太鼓橋付近で常盤川と合流させ,その後,石井手用水は建部神社の方面へと流れました。さらに武小方面へ進み,田上川からの分水を加えた後,荒田川へと流れ,最終的には天保山方面から落とされていました。また,西田本通りの一本横の通りに現在は暗渠(ふたをかぶせた水路)になっている黒田川を通し,甲突川へ落していました。西田本通りは藩政時代の参勤交代道で川筋を横に変えていたのです。
私が子どもの頃には,すでに用水を利用する田はなくなり,水路には雨水や下水が流れ込むだけの,鼻を突く臭いが漂うどぶ川となっていました。夕方になると近所のお母さんたちが生ごみを捨ており(ビニール袋は庭で燃やしていた),不衛生な状態でした。私自身,川に落ちて茶わんの破片が靴を貫通し左足裏を三針縫う怪我を負ったことがあります。

・今では暗渠になっている黒田川

新田開発と用水
1806年(文化3年),石井手用水は伊敷の飯山橋近くで甲突川を堰き止め(石井出),甲突川の水を取水していました。当然,甲突川右岸の支流の水も取り入れ,用水の水量を確保していました。伊敷の肥田から小野,永吉,原良,薬師,武までの6.5キロを通して,20ヘクタールの新田開発に使われました。

・ 石井手用水取水口の井堰(大田パン工場の近く)幅40数m,高さ2mで地元の人たちの釣り場や天然のプールになっていました。その中に日本人初のオリンピック連覇の鶴田義行選手がいたのです。
しかし,水路の決壊などの理由から,原良川のように流れが速く比較的大きな支流の水は分けていました。この時,石井手用水の一部を暗渠にし,その上に井堰を架けて原良川を越させたため,「架け越し(かけごし)」という地名がつきました。この構造物は昭和40年代まで見ることができました。

・昔のイメージ合成
さらに,幸加木川は「お乃湯」近くから,常盤川は西田小近くから,それぞれ用水に水を落とし,合流させて流していました。 藩は1806年,それまで天保山方面に流れていた田上川の川筋を変え,鴨池方面へと流れるようにし,新川を造成しました。これにより水田の面積が飛躍的に拡大されました。その際,新川の一部の流れを武小学校辺りで石井手用水に合流させ,その後,荒田川を経由して天保山方面へと流していたのです。
