通幻十哲を訪ねて~石屋(伊集院)と量外聖壽(蒲生)~

蒲生駅

 蒲生町誌によると,蒲生駅は,大隅国桑原郡の蒲生郷に位置し,役人が馬を乗り継ぐ拠点でした。この駅は,薩摩国衙(薩摩川内市御陵下町・国分寺町)と大隅国衙(国分府中)の間の距離が遠かったために設置されました。南側では,吉田を経由して鹿児島に至り,北薩摩・南薩摩・大隅の交通の要衝の地であり,中継点として重要な地でした。

 蒲生は元々「蒲生院」と呼ばれていました。古代の倉院に由来し,租税の米の管理を行っていたところです。後の郡や郷と同様に扱われています。南九州の荘園は,島津荘や大隅正八幡宮(鹿児島神宮)領がその多くを占めています。蒲生院の多くは大隅正八幡宮領であったそうです。 

 今の蒲生小学校の敷地内には,かつて永興寺と呼ばれるお寺がありました。この寺は大定山護法院永興寺として知られ,室町時代の明徳年間(1390~1393)に量外聖壽(りょうがいしょうじゅ)和尚によって蒲生郷の菩提寺として建立されました。永興寺は曹洞宗総持寺派に属し,七つの伽藍と多くの末寺を有する大規模な寺院でしたが,明治2年の廃仏毀釈により廃寺となりました。地元では永興寺を「よくし」と呼んでいるそうです。

通幻禅師の伝説

 ところで,量外聖壽や石屋真梁の師として有名な通幻寂霊(1332~1391)には次の有名な伝説があります。

 「毎日飴を買いに来る女(亡くなった母)がいました。店の主人が不思議に思って後をつけると,墓の中から赤ん坊の泣き声が聞こえ,掘り起こすと男の子の赤ん坊(通幻禅師)が現れた」という伝説です。

通幻十哲

 禅師の死後,「通幻十哲」と呼ばれる弟子たちが全国に曹洞宗の教えを広め,各地に寺院を開いて室町時代の寺院で爆発的な活動を展開しました。その中で,量外聖壽禅師は,石屋真梁と共に薩摩の「通幻十哲」の一員として,蒲生の永興寺の開祖となりました。永興寺の開基である蒲生氏12代の蒲生清寛の叔父に当たる人が高名な量外聖壽禅師なのです。

藤原道長から続く名門,蒲生家

 蒲生家は,大河ドラマ「光る君へ」でお馴染みの藤原道長から続く名門なのです。

➊藤原道長-❷頼宗-❸俊家-❹基頼-
❺通基❻教清-①蒲生舜清(蒲生家初代)-
②種清-③清直-④清成-⑤清続-⑥清茂
-⑦宗清-⑧直清-⑨清種(量外の父)-
⑩清冬-⑪清寛(永興寺開基)-⑫忠清-
⑬久清-⑭宣清-⑮充清-⑯茂清
(種子島忠時子)-⑰範清   
  ※「さつまの姓氏」(川崎大十)より

蒲生家と蒲生八幡神社

 鹿児島県史料集によると,❻教清は宇佐八幡大宮司の娘と結婚し,その間に舜清が生まれた。舜清は宇佐八幡留守職として下向しており,1120年に垂水城に入城しました。その後,舜清は国分正八幡の執印家の行賢の娘と結婚しました。行賢から蒲生と吉田を譲り受け,蒲生に移り勢力を拡大していきました。「藤原家・宇佐神宮・鹿児島正八幡執印家の流れを組む名門家・蒲生氏」

 1123年,舜清は地名から蒲生氏初代を名乗り,宇佐八幡を勧請し,蒲生八幡神社を建立しました。蒲生氏は範清まで続きましたが,1557年,島津貴久に叛き,蒲生城が落城しました。その後,宮之城に逃れ,蒲生氏は430年にわたる所領を失うこととなりました。

 石屋真梁和尚は多くの寺院を開山しているのに対して,量外聖壽和尚の永興寺が藩内に末寺を広げられませんでした。その理由として,蒲生家の衰退が百年以上も後であることから,島津氏か国分正八幡執印家との関係悪化が影響しているのかもしれません。天下に轟く名僧ですので,薩摩に帰って来なければ後世に残す大きな実績を挙げたことでしょうに残念ですね。

大定山護法院永興寺(三国名勝図絵の要約)

 久徳村にあり,曹洞宗総持寺(石川県)の末寺であり,この地域の菩提所である。本尊は釈迦如来の坐像で,開山は量外聖壽和尚である。彼は蒲生氏初代である舜清(上総介)の10代の子孫であり,清種の末子として生まれ,蒲生氏12代の清寛の叔父に当たる。丹波永澤寺の開山である通幻和尚の法を受け継ぎ,十哲の一人として活動した。通幻和尚は1406年にこの寺で亡くなっている。
 彼の肖像は客殿の一室に保管されており,当寺は明徳年間(1390〜1394)に蒲生美濃守清寛によって開基された。それは量外の禅場であり,清寛の位牌が安置されている。その位牌には「本願檀那了山悟公庵主」と記され,1648年との年号が刻まれている。 蒲生氏の系譜を確認すると,清寛は蒲生氏の12代目当主であり,恕翁公(奥州家7代元久)や義天公(島津家8代久豊)の時代に仕えました。1407年,伊集院頼久が川辺松尾城を包囲し,清寛は島津家8代久豊の命令に従い,援軍として鳴野原で戦死しました。
 法名が了山道悟庵主であることから,位牌の年号が1368年であることは,戦死した1407年のおよそ50年前に当たります。この時点で清寛公は幼少期にあたる可能性があります。清寛の系図が不明ですが,父である清冬は1343年に生まれ,1368年には27歳になります。したがって,清寛はこの時期には幼弱な状態であったと推測されます。位牌の年月が記されている理由は,確定されたことではありませんが,おそらくその寺や信者たちが清寛公を偲び,その功績や遺徳を称えるために記されているのでしょう。寺の禄高が54石余りと多く,土地も放棄したとのことですが,以前は七堂の伽藍があり,本尊も安置されていたとのことです。現在はその仏像全てが客殿に安置されているそうです。

 大定山護法院永興寺は,曹洞宗大本山・総持寺の末寺で,広大な七堂伽藍(山門や仏殿,法堂から僧侶の住む房,浴室,便所まで一通りの建物が揃った寺院施設)を持つ,蒲生郷の菩提所でした。この寺は,明徳年間(1390〜94)に,蒲生第12代清寛が叔父の量外聖寿和尚を開山として創建しました。

 廃仏毀釈の影響で,寺に関する資料はほとんど残っていないようです。唯一252字の銘文が刻まれた梵鐘が展示されています。江戸期には何度か新しい鐘が造られましたが,この梵鐘は廃仏毀釈や金属回収の難を乗り越えた貴重な文化財です。

・ 梵鐘(蒲生観光交流センター)

 また,蒲生八幡神社には,日本一の「蒲生のクス」と呼ばれる有名な巨大クスがあります。案内板によれば,1123年,蒲生院の領主・蒲生上総介舜清が宇佐八幡神から勧請して,この地に正八幡若宮(蒲生八幡神社)を建立したそうです。その際,このクスもすでに神木として祀られていたとされています。一方,伝説では,和気清麻呂が宇佐八幡神神託事件を受け,大隅に流された際,蒲生を訪れて杖を大地に刺したところ,クスが根付き大きく成長したというものがあります。これは後に作られた全国に広まる和気神社伝説の一つと考えられています。

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