阿久根の歴史散策

 阿久根の歴史を記した書籍が少ない中『麑藩名勝考(げいはんめいしょうこう)』には,次のように記されています。

莫禰郷鷹口(阿久根高之口)は,西目村の一部で入江が複雑に入り組んでおり,龍王岩・弁天嶋・水天嶋・蓋染島などの奇岩があります。満潮時にはこれらは海中に沈み,干潮時には広い干潟となります。」

※「(げい)」とは鹿と児から成り立つ 「シカの子」の意味もあるそうですが,古くから鹿児島(或いは桜島)のことを「麑」という字で表した例があり,麑藩とは薩摩藩のことです。鹿児島市冷水町のマジオドライビングスクールは,かつてこの字を使い「麑城(げいじょう)自動車学校」という名称でした。

※ 次の絵図の沖合にはクレコシマをはじめとして,小島や奇岩の数々が記録されています。奥の「クレコシマ」という名の由来は分かりませんが,「暮小島」と書き,夕暮れ時の夕焼けに照らされて現れる小さな島を指しているとするとロマンティックですね。

・奥からクレコシマ・水天嶋・弁天嶋・竜王岩・愛染島

伊能測量と川南家について

 1812年(文化9年)2月24日,伊能測量隊(別隊)は野間の関所から薩摩に入り,高尾野・野田を経由して,2月26日に阿久根へ到着しました。この日は,野田村から出発し,現在の阿久根まで約2里19町18軒(およそ10.7キロメートル)を測量しました。

 阿久根では,地元の豪商である川南源兵衛と手洗作左衛門の家に宿泊しています。翌2月27日には阿久根を出発し,西目大川へ向かいました。さらに2月29日には新田八幡宮まで測量を行い,参拝もしています。

 なお,前回ご紹介した桑島の密貿易基地を管理していたのも川南氏です。1600年代,薩摩藩の要請により帰化した中国人貿易商・川南源兵衛が記した「川南文書」には,当時の海運に関する貴重な記録が残されています。

・ 冷水町の興国寺墓地の汾陽(河南)家の墓地

 川南源兵衛(歴代襲名)は,中国・河南省汾陽の出身で,琉球を経由して阿久根に移住し,帰化しました。はじめは薩摩藩の唐通事(中国語通訳)として仕え,その後は藩の御用商人としても活躍しています。後年には鹿児島城下に移住しました。

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