阿久根の歴史散策その2

英祢から阿久根へ

・ 阿久根市の芋焼酎「英祢氏」

 薩摩平氏の流れを組む阿久根氏は,平安末期には英祢(あくね)院の院司に任命されていた下向しました。鎌倉時代「英祢」の改めてこの地を賜りました。その後,応永18年(1411)には島津元久に降伏し,宝徳3年(1451)には島津忠国が地名を「英祢院」から「阿久根」へと改めました。英祢氏は再びその地の地頭に任じられ,薩州島津家の家臣として阿久根の地を治めるようになりました。しかし,秀吉によって薩州島津家の断絶(1592年)させられたのを機に,英祢氏は阿久根山下から高城郷へと移住しました。

 脇本港の入口に位置し,港を季節風から守っていたのが寺島です。当ブログ「甑島の松木少将と大炊御門中将の墓」でもご紹介したように,江戸時代初期に宮中で起きた猪熊侍従事件に連座し,甑島に流された松木少将の子孫が,明治の元勲である寺島宗則(松木弘安)にあたります。彼は「松木」から「寺島」へと改姓しましたが,その由来となったのが,この寺島なのです。

 図絵に描かれた脇本港では,西側の岬の先端に番所(ばんどころ)があったことが記されています。頴娃町にも,番所鼻(ばんどころばな)という有名な地名があり,そこは伊能忠敬が“日本一”と称えたと言われる石碑が建てられています。地名に使われる「鼻」や「花」は,いずれも端(はし)や岬(みさき)を意味する言葉です。

 江戸時代に津口番所が置かれていました。太平洋や東シナ海に面し,琉球や中国への玄関口であった薩摩には,全部で24カ所の津口番所がありました。なかでも,東の志布志番所と西の脇本番所には「津口役人心得条書」という規則があり,キリシタンや一向宗の調査,外国船の積荷の取り締まりなどが厳しく行われていたそうです。

・番所丘公園から見える甑島

タイトルとURLをコピーしました