波留の地名
阿久根の地は山が海まで迫っており,田畑などの農地が少ない地域です。そのため,海を開く(埋立)か,山や台地を開墾する必要がありました。ここで地元の郷土誌に記載されている地名由来について紹介します。
まず「倉津」の地名の由来は,「湊にある倉」と記されています。なお,庄屋や代官・関など地名に残っているケースもありますが,一般的に地名に特定の建物が使われることは少なく,「倉」や「蔵」は,馬の「鞍」のような山の地形を指す場合が多いため,倉は中が凹んでいる山の斜面を指すことが多いのですのです。藩政時代の山は樹木(木材や燃料)が伐採され,はげ山が多く,山並みの形からの地名も多かったようです。「蔵之元」などは,海辺に迫った山の斜面の麓を意味するようです。
また,阿久根市の中心部の波留の由来は「波を止める」,つまり防波堤を意味すると記されています。鎌倉時代まではこの辺りが海だったためといわれています。防波堤地名の場合「破戸」などが一般的です。一方,春・原・治・波留などの地名は,開墾によって生まれた土地を表しています。未開の地を新たに開墾した田地は,「針田」や「墾田(はりた)」などと呼ばれていますので,波留は「治・原(はる)」などの開墾地を指す場合が多かったのです。
島津忠兼の活躍

・島津常陸守忠兼之碑
出水五万石(秀吉にとられて家康によって返還された)
戦国の頃,出水島津家(薩州島津家)は,水俣や人吉,天草諸島と接し,政略結婚などを通して領土拡大を図っていました。国境の地では,味方になったり,裏切ったりを繰り返す離合集散が日常でした。そんな中,周囲の渋谷氏や東郷氏,天草氏との戦いでは,島津忠兼が活躍していました。

・忠辰の祖父は義久に当たり,朝鮮の役では義弘に露骨に反目し,結果的に秀吉によって「出水五万石」を没収されました。その後,朝鮮での義弘の大活躍(泗川の戦い)により,家康からこの地を返還されたのです。(朝鮮の役での恩賞は認められておらず,全国でただ一カ所だけであった)
薩州島津家5代の実久は,島津宗家を凌ぐ勢力を築き,その原動力となったのが忠兼でした。忠兼は渋谷氏・東郷氏に勝利し,天草越前守や獅子谷七郎を討って長島や獅子島を制圧し,薩州島津家の勢力を広げました。現在,県境が葦北まで歪に入り込んでいるのはこの時の活躍があったからです。
県境の間違い
・「マップー国土交通省 九州地方整備局」より


・ 国土交通省九州地方整備局の地図の色分けでは獅子島や長島は熊本県になっています。更に県別でも同じ扱いでした。領土を管轄する機関なのでうっかりでは済まないと思いますが…。鹿児島県や長島町は気づいたら,早めに訂正してもらってくださいね…。〇〇県の知事さんだったら抗議しているはずですよ?

・国土交通省の機関,国土地理院の地図です。横の連携は大切です。
御八日踊り

・堂崎城本丸址
しかし,実久が忠良・貴久親子に敗れて隠棲すると,跡を継いだ義虎は忠兼を疎ましく思い,讒言もあって忠兼を惨殺します。その後,亀ヶ城では怪異が続き,暴風雨や疫病,飢饉が長島や野田に広がりました。人々はこれを忠兼の祟りと恐れました。
義虎はのちに忠兼の無実を知り,墓を建てて霊を慰め,「若宮八幡」として祀りました。この祟りに由来するとされるのが,出水や長島で行われる「御八日踊り」で,種子島踊りや棒踊りなどが披露される伝統行事となっています。後年,本藩の人物誌『国賊伝』には,忠良親子と対立した5代実久と,豊臣秀吉により改易された7代忠辰が国賊として紹介されています。
「日暗ガ丘(ひぐれがおか)」
桑原城と内田の中間に位置する小高い畑地帯は,昔から「日暗ガ丘(ひぐれがおか)」と呼ばれています。丘の西側には内田があり,南側には水田が眼下に広がって見渡せます。
この水田一帯は,今からおよそ400年前の永禄の頃には,折口湾から続く入江で,海が広がっていたと伝えられています。当時,桑原城の城主は,薩州島津義虎(出水城主)の家臣で叔父でもある島津忠兼(野田城主)の配下に属する一武将でした。
ところが,永禄8年(1565年)の初春,忠兼は島津義虎の命令を受けて,長島城主・越前正を堂崎城に攻めました。越前正は敗れて自害し,長島は忠兼の領地となりました。
その後,越前正の家老たちは捕らえられて出水に送られましたが,主君・越前正の非業の死に深い恨みを抱き,忠兼に強く敵意を持つようになりました。そしてその年の夏,「忠兼は長島を手中に収め,謀反を企てております」と島津義虎に讒言したのです。
この讒言を聞いた義虎は激怒し,直ちに忠兼を出水城に呼び寄せ,自らの手で惨殺してしまいました。これは,旧暦の8月7日に起きた出来事でした。
この事件以降,忠兼の支配下にあった桑原城は,薩州家から厳しく監視されるようになりました。桑原城では,多くの将兵を長島の堂崎城に駐留させていましたが,彼らとの連絡も昼間には行えないような状況となりました。将兵の妻や親たちは,日が暮れた深夜に,入江に着いた小舟に便りを託し,愛しい夫や子の無事を案じながら,いつまでもこの丘の上に立ち尽くしていたといいます。こうした出来事から,この場所は「日暗ガ丘(ひぐれがおか)」と呼ばれるようになったと伝えられています。
千人塚
田代米次の上手(東方)に,「千人塚」と呼ばれる塚があります。ここは今から約480年前,天文16年(1547年)に出水城主(第5代)・島津実久と,東郷城主・東郷重治との初めての戦場となった場所です。
当時,出水方の大将・島津忠兼は,攻め寄せてきた東郷勢を欺くため,その前夜に米次一帯で盛んに稲わらを打たせました。「出水勢はまだ出陣の準備中で,わらじを作っている最中だ」と東郷勢を油断させ,深夜にひそかに東郷勢を包囲して火を放ち,一気に攻め立てました。
不意を突かれた東郷勢は必死に防戦しましたが,逃げ場を失い,討ち死にする者が続出しました。多くの死者を残して敗走したと伝えられています。このときの東郷勢の戦死者を集めて埋葬したのが,この「千人塚」です。多数の死者を葬った塚であることから,「千人塚」と呼ばれるようになりました。