阿久根の歴史散策その5

 阿久根の海岸は,東シナ海の荒波にもまれ,波しぶきを上げる美しい景色が広がって波の音も心地よく響いてきます。また凪の日,夕日に赤く染まった光景を目にすると,頼山陽の詩のように,はるか異国の地にまで思いを馳せることができるようです。昭和4年,県内各地を旅した与謝野晶子夫妻も,この光礁の美しい風景を目の当たりにして,同じように心を動かされて,歌を残しています。

①「光礁の 波と岩とに 今日ふれて 清く明るく なる心かな」(鉄幹)

 訳「光る礁(いわ)に打ち寄せる波と岩に,今日は直接ふれて,心が洗われたように清らかで明るくなったようです。」波しぶきがふりかかり,心を洗ってくれたようだったのでしょうか。そのまま歌にしたみたいですね。

②「乙女子の さし櫛ほどに やさしきは  西の阿久根の 大島にして」(晶子)

 訳「乙女の髪飾りのように,優しく美しいのは,西の方にある阿久根の大島です。」奥に浮かぶ大島と桑島を髪を通した髪飾りに例えるとは流石ですね。 

・戸柱神社から見た光礁と大島

英祢院

 朝廷は地方支配のために「評(こおり)」を設けていましたが,701年の大宝律令により「郡」と改められました。平安時代中期の辞書「和名抄」によれば,出水郡は①山内(高尾野・野田)・②勢度(阿久根北部)・③借家(出水北部)・④大家(出水中・南部)・⑤国形(阿久根中・南部)の五郷からなっていました。古代の阿久根は出水郡の「勢度や国形」に属していました。

 しかし,平安後期になると,郡の領域を超える荘園が現れ,郡の機能は次第に低下しました。郡司層は没落し,在庁官人や武士たちが台頭してきました。平安末期には未開地の開発が進み,郡から独立した「院」が形成されました。「英祢院」は,開発拠点の官衙が行政単位名に転じたものです。

 また,古代の薩摩・大隅国の古道は,水俣から薩摩に入り,市来(出水)~英祢(阿久根)~網津(川内北)~薩摩国府(川内)~櫟野(市比野)~蒲生~大隅国府(国分)~大水(財部)~嶋津(都城)へと続いており,この中に「英祢駅」がありました。

 阿久根という地名は,かつて「莫禰」「英称」「莫祢」「阿具根」など,さまざまな漢字があてられていました。莫祢氏は,桓武平氏の一族である伊作貞時の流れの一つで,寛元4年(1243年)に①成兼が源頼朝より「莫祢」の地を賜り下向して,莫祢氏を名乗るようになったのです。はじめは賀喜(がき)城に拠点を構え,のちに莫祢城へと移ったと伝えられております。

 薩摩平氏「❶季基 ❷兼輔 ❸成重 ❹成直 ❺成兼」 ❺の成兼が莫祢氏の初代になります。
 ①神崎太郎成兼 ②成秀 ③成光 ④成綱 ⑤成友 ⑥成忠 ⑦成重 ⑧成村 ⑨良忠 ⑩良守 ⑪良速 ⑫良正 ⑬良有 ⑭良照 ⑮良昌 ⑯良澄 ⑰良次 

 その後,宝徳3年(1451年)には島津忠国により,「莫禰」という地名が現在の「阿久根」へと改められました。また,③成光は鎌倉幕府の御家人であり,この頃,愛宕山の近くにある城山に莫祢を築いたとされています。さらに,⑧成村は薩州島津家に仕え,代々家老職を務めていました。

 ⑨良忠の代になると,通字を「成」から「良」へと改め,姓も「莫禰」から「阿久根」へと改称いたしました。⑫良正は薩州家の家臣として,日新公と戦い,天文16年(1547年)には南方の諏訪神社を改修,また永禄年間(1558年以降)には新城に居城を移したと伝えられています。

 しかし,⑭良照の時代,阿久根氏が仕えていた薩州島津家が豊臣秀吉の怒りを買って断絶し,文禄2年(1593年),阿久根氏もその影響を受けて山下村を去り,高城郷へと移住いたしました。また一部の一族は,加世田小湊へ移ったとも言われています。

 阿久根城は,かつて阿久根麓の山城であり,その麓は山下村にありました。しかし,出水筋(現在の街道)に近く,阿久根湊が交通の要所として発展を遂げたため,元禄3年(1690年)には,波留村の小牟田へと移されました。これが大まかな阿久根氏の歴史です。

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