霧島岑神社
霧島六社権現とは,①霧島神宮,②霧島東(ひがし)神社・③狭野神社(高原町),④東霧島(つま)神社(都城市),⑤霧島岑(みね)神社(小林市),⑥夷守神社
なお,夷守(雛守)神社は夷守岳の山腹にあり,噴火で焼失しました。明治7年に住民の総意により霧島岑神社に合祀され現在はありません。
「三国名勝図絵」によると,雛守六所権現社は地頭から未方(南南西)約4キロメートル余りの真方村,夷守(雛守)岳の麓に位置していました。祭神六座とは以下の神々です:
①瓊々杵尊 ②木花咲耶姫命 ③彦穂々出見尊 ④豊玉姫命 ⑤鵜葺草葺不合尊 ⑥玉依姫命
性空上人が霧島に訪れ,霊跡を探し,この六座の神を雛守(夷守)岳に勧請しました。古くは夷守岳の八合目にありましたが,1716年に霧島山の噴火により遷宮されました。元の社は夷守神社から西南西に位置する「宮の宇都」と呼ばれる場所にあり,島津義弘公が神殿を造営しました。
・ 霧島岑神社の御祭神
霧島岑神社略記によると,平安時代末期からの噴火でその都度修復されてきました。しかし,1234年の大噴火により,宮殿近くの冷泉「天之井」も涸れ,日当たりの悪い北側斜面(脊戸尾)では人が住めなくなりました。そのため,北西方向2キロメートル余りの地点に遷座されました。その後,1716年に新燃岳が大爆発し,神社や寺院はすべて焼亡し,社殿も埋没するなど甚大な被害を受けました。御神体は灰砂の中から発掘され,1729年に夷守岳東側の築地に新しく社殿を造営しました。
明治元年に霧島岑神社と改称され,廃仏毀釈により瀬戸尾寺は廃寺となりました。維持経費の困難さや人里から遠いため参拝や管理が不便であったことから,明治7年に県庁や政府の許可を取り,合祀されました。これは神社整理によるものではなく,村人からの願いが認められた結果でした。
・ 霧島中央権現宮(霧島岑神社)
夷守(雛守)神社
夷守(雛守)神社(明治7年霧島岑神社に合祀)
「三国名勝図絵」によると,雛守六所権現社は地頭から未方(南南西)約4キロメートル余りの真方村,夷守(雛守)岳の麓に位置していました。祭神六座とは以下の神々です:
①瓊々杵尊 ②木花咲耶姫命 ③彦穂々出見尊 ④豊玉姫命 ⑤鵜葺草葺不合尊 ⑥玉依姫命
性空上人が霧島に訪れ,霊跡を探し,この六座の神を雛守(夷守)岳に勧請しました。古くは夷守岳の八合目にありましたが,1716年に霧島山の噴火により遷宮されました。元の社は夷守神社から西南西に位置する「宮の宇都」と呼ばれる場所にあり,島津義弘公が神殿を造営しました。
夷守(雛守)神社の祭神も一緒に祭られています。
霧島岑神社略記によると,平安時代末期からの噴火でその都度修復されてきました。しかし,1234年の大噴火により,宮殿近くの冷泉「天之井」も涸れ,日当たりの悪い北側斜面(脊戸尾)では人が住めなくなりました。そのため,北西方向2キロメートル余りの地点に遷座されました。その後,1716年に新燃岳が大爆発し,神社や寺院はすべて焼亡し,社殿も埋没するなど甚大な被害を受けました。御神体は灰砂の中から発掘され,1729年に夷守岳東側の築地に新しく社殿を造営しました。
明治元年に霧島岑神社と改称され,廃仏毀釈により瀬戸尾寺は廃寺となりました。維持経費の困難さや人里から遠いため参拝や管理が不便であったことから,明治7年に県庁や政府の許可を取り,合祀されました。これは神社整理によるものではなく,村人からの願いが認められた結果でした。