頴娃町別府・松原校区の歴史①

耳原遺跡

 耳原集落の北側に位置する大河田・高吉・松永の三叉路付近にある耳原遺跡では,縄文式土器の破片(塞ノ神式土器や石斧,ヤジリ)や弥生式土器が出土していることが知られています。このことから,紀元前3000年前の縄文前期には,加治佐川に沿って松原校区一帯に縄文人が住んでいたことが明らかになりました。

 塞ノ神(セノカン)式土器は,伊佐市菱刈町の塞ノ神遺跡で初めて発見された土器で,円筒形のバケツに似た形状を持ちます。図のように,赤貝などの二枚貝や糸状の文様が特徴です。九州の縄文早期における文化は鹿児島を中心として広がっており,その一つとして耳原遺跡(大河田付近で出土)があったのです。

・ 殿方神社近くの畑で採取した土器(たくさんありました)

・ 頴娃町別府の殿方神社

 松原校区は,江戸時代に別府村が独立するまで御領村の一部で,庄屋(役場)は九玉にありました。六地蔵塔の碑文などによると,この地域は室町時代の中頃に加治佐川を水源として新たに開拓された土地で,御領村の耳(端)と呼ばれる地域でした。

 当時の人たちは開墾地を意味する原を付け,「大耳原」という名称が付けられていました。水成川近く,松永地区の手前は「小耳原」と呼ばれ,移住者が多く人口が増加して活気のある地域でした。地名表記は漢字二文字が求められていたため,「大耳原」は「耳原」に,「小耳原」は「小原」と呼ばれるようになりました。1719年に別府村が御領村から分村すると,庄屋屋敷は松永に置かれ,耳原には名主が,石垣・大川には浦役が配置されました。  

松原小校区の寺院について

 頴娃町内の遺跡は縄文後期の指宿式土器などが複数出土している一方で,耳原遺跡からは塞ノ神式土器しか出土していないそうです。これは,縄文後期以降,この地域に人が住んでいなかったことが考えられます。

 それでは,松原地区にはいつ頃から人が住むようになったのでしょうか。一つの手掛かりとして,別府(当時の太宰府の状況から平姓頴娃氏による開墾地)や「原」,「渕」,「耳」などの地名,新興地域に寺院を建立していた民衆統治の状況などから推測すると,室町時代以降に人々が住み始めた可能性が考えられます。松原校区にあった寺院も室町後期に建立されたと考えられるため,この頃,人々が定住するようになったのかもしれません。

 15世紀中頃,伴姓頴娃氏の初代である頴娃兼政は,頴娃,揖宿,山川を治め,荒廃した領地の復興と支配を進めていました。この時期に,松原地区も加治佐川や水成川沿いの新たな開墾地として農民を移住させ,開墾が進められたと考えられます。

 明治の初めに廃寺となった由緒ある寺院が宝持庵と宝珠庵もこの地にありました。この寺院はどのようなものであったのでしょうか。頴娃氏初代の兼政の義父は,島津本家の8代当主久豊(1375~1425)でした。彼の菩提寺は,玉龍山福昌寺の末寺で,頴娃町麓の証恩寺(郡地区公民館隣の墓地付近)でした。

 1420年,島津久豊は,平安時代から長らく頴娃の地を治めていた平姓頴娃氏を滅ぼしました。その後,久豊は最強のライバルである肝付家10代当主兼氏の三男である兼政を養子として迎え,頴娃・指宿・開聞・山川の地を治めさせました。

 肝付家は元々大伴氏・伴氏の流れを汲み,「伴姓」を名乗っていました。この頴娃兼政(1434~1479年)が,伴姓頴娃氏の初代となります。また,1420年代,福昌寺3代住職の中翁守邦大和尚が,島津久豊夫妻の菩提を弔うために福昌寺を開山しました。そして,その末寺として,15世紀後半に宝珠庵が小原に,16世紀前半に宝持庵が耳原に建てられたのです。

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