頴娃町別府・松原校区の歴史②

宝珠庵(小原の門前)と宝持庵(耳原の寺下)

(1)宝珠庵跡

・ 大日如来像(小原の宝珠庵跡)

 尊顔横の十字架のようなものは,十字羯磨(じゅうじかつま)と言い,仏の智慧を象徴し,煩悩を打破する密教法具・魔除けです。 

宝珠庵跡・大日如来像裏の碑文

 碑文:奉読誦全剛般若盤羅受経○同経一宇三拝

 成就応處 享保元歳拾月十八日

 前永平証恩十五世海月禅

※ 現代語訳:金剛般若の無我を説く経典を,お堂で何回も繰り返し声に出してとなえ拝礼することで,願いが叶いご利益にあやかることができます。享保元年(1716年)10月18日,永平証恩寺15世の海月禅和尚が記しました。

 宝珠庵は,15世紀後半に証恩寺の第7世住職の智雲宗が小原に建立したお寺です。しかし,明治2年の神仏分離と廃仏毀釈の影響で廃寺となりました。現在でも「門前」と呼ばれる小路の横には,大日如来像(真言宗教主)があり,その背面には上記の碑文が刻まれています。

 また,寺跡には寺松が残り,水成川の水路のそばには「居刕(居州)」と彫られた自然石があります。この自然石は河童墓と呼ばれ,証恩寺の第18世住職の娘の墓とされています。ある朝,娘が寺の近くを流れる水成川で溺死体として発見されました。住職は愛娘の霊を弔い,さらに川の事故が二度と起こらないように「河童の仕業」として,子どもたちに注意を促したと伝えられています。

・ 水成川沿いの小原の河童墓(居刕)

(2)宝持庵跡

 宝持庵は,16世紀前半に証恩寺の第8世住職の泰春甫が耳原に建立したお寺です。この寺は,村の繁栄を願って建てられ,住職は村人に学問も教えていましたが,明治2年に廃寺となりました。また,寺木戸にあった碑は「ジュゾドン」と呼ばれ,雨乞いの神様として信仰されていたそうです。県道沿いには市の文化財として有名な耳原六地蔵塔が残っています。「ジュゾドン」は,雨乞いの神様でしたので昭和に入り若い消防団員が,ジュゾドンと間違えて六地蔵塔に消防放水をしていたそうです。

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