香美市のアンパンマンミュージアムを後にし,高知県立牧野植物園へ向かいました。ナビに目的地を入力し,その案内どおりに進んで中学校の横道を上っていくと,突然行き止まりになってしまいました。ちょうど近くで畑仕事をしていた方が,「この道は通れませんよ」と声をかけてくださいました。その方のお話では,一日に10人ほどが同じように迷い込んでくるのだそうです。それでも嫌な顔ひとつせず,植物園までの正しい道順を丁寧に教えてくださいました。

・植物園から見える高知市街地
教えていただいた道は,車が離合できないほどの細い坂道で,途中で対向車が来たらどうしようと不安になりましたが,不思議なことに一台も出会いませんでした。やがて広い駐車場に出ると,多くの車や観光バスが停まっており,別の道があるのだろうと思いました。係の方に尋ねると,この道は一方通行になっているとのことで,ようやく疑問が解けました。
さらに,お遍路の道も交差していると知り,ここが市内でも有数の観光地であることを実感しました。道に迷った出来事も,土地の人の温かさとともに心に残るひとこまとなりました。

・植物園の玄関
植物学者・牧野万太郎の人生
今回,私は初めて高知県立牧野植物園を訪れました。前回高知を訪れたのは2023年5月で,ちょうど朝ドラ「らんまん」が放送の真っただ中の頃でした。園内は大変な賑わいで,入園を断念せざるを得ませんでした。

・NHKホームページより
「らんまん」は2023年度前期に放送されたNHKの連続テレビ小説です。植物学者・牧野万太郎の人生を描いた物語で,出演者の演技が素晴らしく,明治期の植物学会の世界観を生き生きと伝えていました。とりわけ,妻・寿恵子を演じた浜辺美波さんの存在感が印象に残っています。
寿恵子は万太郎の研究人生を支える伴侶として描かれ,その内助の功の大きさを感じさせました。長年にわたり研究を続けることができた背景には,家族の深い理解と支えがあったのだろうと想像できました。ただ万太郎の人生を調べていき,私生活面を知るとショックだったこともありましたが,日本の植物学の黎明期を支えた学者であることは間違いなく一度は訪れてみたい地でした。

・牧野植物園の展示コーナー
最近の高知は,朝ドラや民放のテレビドラマの舞台としてたびたび登場し,注目を集めています。今回訪れたのは2月でまだ冬半ばでしたが,南国土佐の気候はやはりどこか違いぬくもりを感じました。車を走らせると,梅や早咲きの桜がほころび始め,道端の草花も芽吹き,淡い色彩が春の訪れを告げていました。
園内に入ると,まだ春爛漫とは言えない季節にもかかわらず,多くの来園者で賑わっていました。「ラン展」が開催されていて,訪れた方々が多かったのでしょう。冬の名残と,芽吹き始めた春の気配とが同居する園内は,どこか温かい雰囲気を感じさせていました。
春爛漫
「春爛漫」という言葉には,「爛」には「きらめき輝くさま」,「漫」は「一面に広がる」という意味があり,合わせて,「春になり花が咲き乱れ,光に満ちあふれる」情景を表しているそうです。主に4月頃の花盛りの季節に用いられる言葉で,一斉に花が開く生命力あふれる季節を表す言葉になります。

NHKの朝ドラ「らんまん」のタイトルも,牧野万太郎が,植物のように生命力に満ち,明るく天真爛漫に突き進む姿を重ねて名付けられたそうです。
子どもたちに教えた植物や樹木
理科専科を担当していた頃,私は子どもたちに「学校から家に帰る間に桜の木は何本あるでしょうか」と問いかけたことがあります。桜が咲くと,誰もが「きれいだな」と見上げます。しかし,花のない時期には,その存在さえ意識しないことが少なくありません。実際課題を与えても桜の木と他の木と区別がつかないことも多く直ぐに忘れ去られました。

それでも花が少しずつ咲き始めると思い出したように桜の木を数えだすのです。また樹皮に横筋が多く,カサカサした樹皮で光沢が見られるなどの特徴に気づくと,花が散って葉桜になっても木の特徴が分かるようになります。すると他の樹種にも気づき,興味を持ってくれるようになります。樹木の中で,桜やイチョウ,紅葉,キンモクセイ,モミの木など校内にある樹木にも興味を持ってくれます。そして,自分たちでも委員会活動の時間など手入れを積極的にしてくれるのです。

・スタッフによる手入れ
牧野植物園でも,多くのスタッフの方々が日々手入れを重ね,樹木の成長を支えています。そして高知では,花の盛りだけでなく,冬の越冬する枯れ姿や春先のつぼみ,花後に若葉が茂る夏の姿まで,一年を通して樹木の変化を楽しんでいる人が多いのではないでしょうか。だからこそ,華やかな季節でなくとも,多くの人が足を運ぶのだと思います。
春爛漫とは,一瞬の華やぎだけを指す言葉ではなく,季節の移ろいの中で育まれる生命の輝きを感じ取る心そのものを表しているのかもしれません。
可憐なバイカオウレン
閉園間際,足早に園内を回っていると,妻が振り向き,「ほら,バイカオウレンが咲いてるよ」と,手招きしました。駆け寄ってみると,小さな白い花が一面に咲いていて,その可憐な姿に,朝の連続テレビ小説『らんまん』の一場面が蘇りました。
バイカオウレンは,万太郎の実家の裏山に咲いていた花で,万太郎がその花の美しさを寿恵子に熱心に語っている場面が,強く印象に残っていました。また,この花は万太郎の母・ヒサがこよなく愛した花でもあり,物語の中でも大切な意味を持っていました。

さらに,バイカオウレンの葉が牧野博士の没後に開園した高知県立牧野植物園のシンボルマークに用いられているとパンフレットに書いてありました。一輪の小さな花が,人の志や家族の思い,そして後世へと受け継がれる功績につながっていったことは,このドラマのテーマでもありました。
スエコザサ

ドラマの中で,万太郎が「スエコザサ」のことを寿恵子に語り,完成した植物図鑑を寿恵子に手渡す場面が最も印象的なシーンでした。万太郎や寿恵子にとっても長年にわたる努力と情熱がようやく一冊の形となり,二人で積み重ねてきた歳月が報われる瞬間でした。静かなやり取りの中に,これまでの苦労や支え合いの日々が凝縮されており,ドラマの中でも深い感動を覚えたシーンでした。今回一番見たかった植物でしたので,見つけた時はやはり感動しました。
子どもたちが草花を大切にする気持ち
かつて,子どもの日記にこんな一文がありました。「道端のアジサイはきれいなのに,枯れた花がいつまでも落ちないアジサイはしつこくて嫌いです」と。咲き誇る姿は愛されても,色あせた姿は受け入れられにくいとは,子どもらしい率直な感想だと感じました。

多くの子どもにとって,花を愛でるとは,黄色や赤に鮮やかに咲く時期を楽しみにすることなのかもしれません。しかし,「一人一鉢運動」を通して小さな苗の頃から自分で世話を続けていくと,子どもたちに不思議な気持ちの変化が生まれます。水をやり,日差しを気にかけ,支柱を立てる。そうした日々を重ねるうちに,花の最盛期だけでなく,芽を出したばかりの姿も,葉を広げる途中の姿も,等しく大切に思えるようになるのです。

また,週に2,3時間でも,継続して観察しスケッチをさせると,子どもたちはわずかな成長にも気づくようになります。「昨日より葉が大きい」「つぼみが少しふくらんだ」と,小さな変化に目を向ける力が育ちます。
やがて愛情が芽生え,子どもたちは草花の立場に立って考えるようになります。「一生懸命きれいに咲いて,虫たちを呼んでいるんだね」と,植物の営みに思いを寄せ,応援する気持ちを抱くようになります。
今回,広い植物園を訪れて,花盛り以外の枯れた樹木・草花を見ていると,育てるという体験は,命の一瞬の輝きだけでなく,その過程すべてを大切にする心を育むのだと,あらためて感じました。
牧野万太郎のことば
| 人の一生で,自然に親しむということほど有益なことはありません。人間はもともと自然の一員なのですから,自然にとけこんでこそ,はじめて生きている喜びを感ずることができるのだと思います。自然に親しむためには,まずおのれを捨てて自然の中に飛び込んでいくことです。 そしてわたしたちの目に映じ,耳に聞こえ,はだに感ずるものを素直に観察し,そこから多くのものを学びとることです。 ~牧野万太郎~ |
私が低学年のころ,土曜日になると学校を休む友人が2,3人いました。担任の先生はそのたびに「あいつら,また山学校か」と言うだけで,さほど気にとめる様子もありませんでした。土曜日は給食がなかったため,山間部の木場集落の子どもたちは,家の手伝いをしたり,野山で木の実を採って食べたりして過ごしていたそうです。

・ぐみの木とヤマボウシ
私はその話を聞き,一度一緒に「山学校」をしたことがあります。先生は同じ様に何も言わないだろうと思ったからです。しかし,学校から連絡を受けた母が,険しい表情で迎えに来ました。なぜ居場所が分かったのかと不思議に思っていましたが,後になってその友人の母親が学校に知らせていたことを知りました。
人の手がほとんど入っていない山に分け入ると,食べられる木の実や山菜が驚くほど多く,空腹を十分に満たしてくれます。私はそこで,野鳥の罠の作り方や仕掛け方も教えてもらいました。何カ所も罠を作っては移動し,もう一度最初に戻ってみると鳥がかかっているのです。取った鳥は夕食のおかずにするのだと聞くと,さすがにもらえませんでした。

・鳥の罠
先の牧野万太郎の言葉どおり,自然の中に飛び込むことで,自然や生き物たちが静かに語りかけてくるように感じられます。さらに,鳥を捕まえたり木の実をいただいたりといった営みが加わると,人間もまた自然の一部であることに気づかされます。自然はただ眺めるものではなく,関わり合うことで初めてその豊かさを実感できる存在なのだと思います。
