10月7号「首なし塚」で続きで,県内に残る官軍の一つ岩川官軍墓地に行ってきました。岩川の官軍墓地は、西南戦争で犠牲になった官軍の兵士たちを追悼する場所です。平成になり、石橋公園に慰霊塔が建てられるまで、ここは鹿児島県で唯一の官軍墓地でした。墓石は、他の官軍墓地でもよく使用される、天草産下浦石と呼ばれる石材が使われています。鹿児島県内に官軍墓地が存在することを知った時、最初に考えたのは、当時の官軍墓地反対派の抵抗をどう抑えたのかでした。
岩川尋常小学校の丸山義武訓導の尽力
「縄文の森から・岩川官軍墓地の昭和8年の手紙について」によると,岩川官軍墓地は、西南戦争後に陸軍によって建設されましたが、太平洋戦争後に周辺の墓地が整備される中で、官軍墓地も整備されて以降、地元の人々によって手厚く祀られてきたとのことです。また,この墓地が広く知られるようになったのは昭和8年で、岩川尋常小学校の訓導である丸山義武氏が尽力し、「鹿児島において西郷軍は名誉が与えられるが、官軍側はどうであろうかとの疑問」から官軍戦死者の県外出身者の子孫に対してこの墓地の存在について手紙を送ってからのことでした。その結果、昭和49年には町の指定文化財(史跡)となり、地元の官軍の英霊たちへの敬意が示されています。
・ 岩川官軍墓地
・ 石橋公園の慰霊塔
祇園之洲公園内の官修墳墓
明治期末まで、県内には五カ所の西南戦争の官修墳墓(官軍)が存在し、墓石は整然と並んでいたそうです。鹿児島市では、最後の決戦場である吉野や武岡などで戦死した官軍1270柱が祇園洲官軍墓地に葬られました。しかし、官軍墓地は荒廃が著しく、昭和30年には地下納骨堂に合葬され、西南戦争100年(昭和52年)に際して石橋記念公園横に慰霊塔が建てられたそうです(慰霊塔案内板より)。
内務省報告によれば、大正期の官軍墓地は熊本(163カ所)、大分(12カ所)、宮崎(12カ所)、鹿児島(29カ所)の各県に存在しており、熊本県が圧倒的に多いことが分かります。鹿児島県内にも29カ所もの官軍墓地があったことは驚きですが、現在は主に2カ所残っているだけです。薩摩に古くから伝わる六地蔵塔の精神は、「敵味方分け隔てなく弔う」ことを重んじていますが、西南戦争における官軍(薩摩人も多くいた)の慰霊に対する取り組みが時として遅れがちであったように感じます。
・ 山形照方陸軍大尉(熊本)、奥田政實少尉(高知)、林為隆少尉補(愛知)
岩川の官軍墓地
この墓地は明治10年7月8日からの百引や野方・岩川方面での戦いで亡くなった官軍の戦死者のものであるそうです。戦死者は青森から熊本までの26県、総勢86名(官軍人夫8名を含む)の戦死者がここに眠っています。
熊本県(16名)・高知県(2名)・愛知(2名)・茨木(3名)・石川(12名)・秋田(2名)・福島(3名)・兵庫 (6名)・和歌山(6名)・大阪(3名)・愛媛(3名)・千葉(1名)・静岡(2名)・山口(5名)・岐阜(2名)・島根(2名)・岡山(3名)・三重(2名)・山形(1名)・滋賀(1名)・宮城(2名)・埼玉(1名)・広島(1名)・青森(1名)・福岡(2名)・高知(1名) 計86名 墓地内には、入って左奥に将校三名の大きな墓があります。
末吉町岩南の薩軍の墓
末吉町の岩崎岩南の山中にあるこの塚は、明治10年の西南戦争において、岩之上から坂口坂、大沢津の坂を登ってきた官軍と戦いながら戦死したと伝えられる薩摩軍の墓です。戦闘の具体的な日付は、記録によれば7月23日から24日にかけて岩川や丸山原で行われていたため、この期間に戦死した兵士たちのものと考えられます。しかし、塚には石に刻まれた指名や記録がなく、具体的に誰が葬られているのかは分かりません。
・薩軍の墓(末吉町の岩崎岩南)