鹿児島市吉田町は元々大隅国だった

 1587年,吉田町は豊臣秀吉の九州征伐の後,大隅国から薩摩国に編入されました。

 日本の歴史において,江戸時代は「近世」,鎌倉時代・室町時代は「中世」,それ以前の奈良時代や平安時代を含む古い時代は「古代」と呼ばれます。この古代の頃,鹿児島を指す呼び方が「薩摩」と「大隅」です。7世紀中期以降の律令制の成立に伴い,現在の鹿児島県本土部分や宮崎県を含む地域は「日向国」と呼ばれていました。飛鳥時代の終わり(702年)には「薩摩国」が設置され,奈良時代初め(713年)には日向国から鹿児島県本土の東部が「大隅国」として分立し,「薩摩国」と「大隅国」が始まりました。

 その後,824年までには桑原郡や菱苅郡,屋久島・種子島を合わせて,大隅国は八郡となりました。 鹿児島県は錦江湾を挟んで薩摩半島と大隅半島に分かれます。吉田町は平成16年に鹿児島市と合併するまでは鹿児島郡吉田町と呼ばれていました。鹿児島郡であるため,古い国名では薩摩国に属します。しかし,薩摩国に編入されたのは豊臣秀吉の時代からであり,それ以前は大隅国に属していたことはあまり知られていません。

 1587年,豊臣秀吉の九州征伐(島津征伐)戦後処理の一環である「太閤検地」において,吉田院が大隅国桑原郡から薩摩国鹿児島郡に編入され,国境が変更されました。これは,島津藩主義久と弟義弘との兄弟の仲を悪化させ,島津氏の力を弱めるための秀吉の意向であったと言われています。この時,藩主義久は大隅国と薩摩国を交換させられ,しかも吉田まで取られた形になりました。更に娘婿久保に与えられていた日向国諸懸郡を,久保が朝鮮出兵の地で病死すると伊集院氏に与えたことが,後々禍根を残すことになったのです。(秀吉の狙い通り)

花尾山~吉田町全体に広がる丘陵の東西の端(花)

 吉田郷は薩隅両国の境界に位置し,島津氏の三州統一の重要な地でした。1587年まで大隅国始羅郡に属していましたが,1596年6月29日に豊臣政権により吉田村7789石が義弘の蔵入地となったのです。吉田町全体に広がる丘陵の東南の端()から根を延ばす山という意味になります。花尾山は大阪や長門市など全国に多い隣町との境(端)地名です。

薩摩国国府は薩摩川内市

・ 薩摩国府跡

 案内板によると,大化の改新(645年)によって,大和朝廷は中央官制の仕組みを作り,全国60余りの国を中央集権的に支配しました。古代薩摩の首府として,この地に薩摩国府(薩摩の都)が設置されたのは,約1300年前の702年です。薩摩国府の中心には役所(国衙)が置かれ,その下には郡を治める郡衙や国府を守るための軍団がありました。

 平安時代以降,荘園(私有地)の発達により,国衙領(公有地)は次第に減少し,鎌倉時代を経て,最終的には国府は廃絶しました。当時の様子は古い歴史書『続日本紀』に記されています。

大隅国国府は霧島市

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