先生方の転勤について

 

南北600キロの鹿児島県

 鹿児島県の南北の長さは,北緯27度1分(与論島)から北緯32度18分(獅子島)までの南北600キロに及び,与論島のチヂ崎から獅子島のタグイ﨑までの直線距離では612キロです。この距離は,鹿児島県庁から京都市までの直線距離とほぼ同じです。
 正式な南北の長さは588.1キロで,全国で東京都に次いで2位となっています。東京都は小笠原諸島を含むため,その長さは1,719.6キロに達しますが,鹿児島県はそれに続きます。北海道の長さは本県より120キロも短いことは驚きです。
 また,本県は周囲の長さでも注目され,2,666キロの周囲の長さ(海岸線)があるのです。これは,北海道(4,461キロ)や長崎県(4,183キロ)に次いで全国で3番目の長さです。多くの離島や入り組んだ半島がある特徴的な地形が影響しているようです。

教職員の異動

 毎年3月,教職員の異動発表が行われると,テレビでは鹿児島から離島へ,或いは離島から鹿児島へ向かう人々のお別れのシーンが映し出されます。特に子どもたちや先生たちの思い出が詰まった別れの瞬間は,感動的で心に残ります。船での別れは「校歌」「先生と叫ぶ声」「紙テープ」「船の警笛」「ゆっくり離岸」など自然と胸に迫るものがあります。きっと,先生方も子どもたちも,この出会いと別れの経験を通して多くのことを学び,成長していくのでしょう。

 長崎や鹿児島県のように離島が多い地域では,転勤は他の県よりも多くなります。私は教職員時代,離島での生活を三度経験し,それぞれの地で素晴らしい出会いや思い出を得ることができました。これらの経験は,私にとってかけがえのないものでした。

・奄美航路「Aライン」

 教職員として幅広い視野を育むためには,多くの地域や実態の異なる子どもたちと接することは重要だと思います。特に,離島との交流は学校環境が大きく異なるため,教師としての力量を伸ばすため大切な時間になります。鹿児島県では例年,教職員全体の約5分の1に当たる3000人程度が異動しているようです。

・南海日日新聞より

人事異動について

 私が現職のとき,鹿児島県の人事異動は原則として,「県内を薩摩半島(北・南),大隅半島,離島の熊毛地区,大島地区など,大きく8つの地区に分け,3つのブロック(A:市街地,B:北薩・伊佐・大隅,C:離島)を経験する」ようになっていました。しかし,子どもの教育(保育園から高校まで)を考慮すると,3つ以上の地区を異動することに抵抗を感じ,結果として単身赴任を選ぶ職員も多かったようです。

 特に,塾や保育園などの教育環境については,鹿児島市への一極集中が顕著であり,特に共働きの家庭では希望調整が非常に難しい状況でした。この話を友人にすると,「公務員は甘い,民間の転勤の方がもっと大変だ」とよく言われていました。しかし,民間の転勤は全国の大きな都市が殆どで,さらに公務員でも市町村役場に勤務の場合,異動はないため,教員の転勤とは比較できないと思うのです。

 民間でも海外勤務が中心の企業は確かに大変なようです。かつて民間企業でお世話になった上司の言葉を思い出しました。上司は海外勤務が長く,その生涯で転勤の移動距離が3万キロを超えると言っていたのです。私は自分の移動距離が知りたくなり,計算してみました。上司と比べるとその距離は少ないものの,教員仲間の話を聞く限り,私の転勤距離は一番長かったようです。

私の引越と転勤

 私の父も教員で,離島2回を含めて9回の転勤を経験しています。そのうち半分は私も同伴しました。また,私自身も教員になる前に民間企業で5年間ほど働いていました。

 東京での①学生時代から②会社員時代(宮城県仙台市・福岡市),そして③教員時代(転勤11回で移動距離1970キロ)に至るまで,私はあちこちを転々とし,移動を繰り返しました。数えてみると,移動した距離は約9000キロに達し,引越しのペースは生涯で2年に1回ほどで,そのたびに新しい場所で新しい生活が始まり,いつも落ち着くことがないような不安感がありました。振り返ってみると,私はここが「故郷」だと呼べる場所が無かったような心持で,いつも過ごしてきたような気がしています。

引越の思い出

 私が小学校に入学した学校は川辺地区の海岸沿いの学校でした。引っ越した先は古い農家で,広い畑がありました。母はその畑でスイカやカボチャ,トウモロコシ,カライモ,ダイコン,トマトなどを育てていました。スイカは毎日食べたり,近所に配ったりしていましたが,食べきれないことも多く,結局そのまま肥料になってしまうことがよくありました。

 しばらくすると,大きな犬が,毎朝我が家にやって来るようになりました。その犬は数キロ離れた大家さんの飼い犬で,私たちが引っ越してくるまでここに住んでいたそうです。名前は別にあったようですが,黒くて大きな秋田犬だったので,私たちは「クマ」という名前をつけました。

 クマは朝と夕方,欠かさずやってきました。玄関で吠えると,母が朝食の残りご飯を食べさせていました。学校の下校時間になると,私たちと遊ぶためにまたやってきました。私を見ると,飛び跳ねて抱きつき,なめまわすようにして喜んでいました。クマと一緒に川遊びをしたこともありました。そして,夕方になると,また大家さんの家に帰っていくのです。

 今では保健所などの指導もあり,このような光景は考えられませんが,当時は放し飼いの野良犬が町中を歩いていることも珍しくありませんでした。学校の先生たちは,「狂犬病を持っているかもしれないから近づくな」と言っていましたが,それでもクマは家族同然でとても優しい犬でした。

 そして3年後,引っ越すときに大家さんがクマと一緒に見送りに来てくれました。走り出すトラックからクマに手をふると,私を見ていたクマが「ワン・ワン・ワン…」とずっと鳴き続けてトラックを追いかけていた姿は,今でも目に焼き付いています。

・南日本新聞より 

子どもの転校

 最も悲しかったことが,「また,引越しするの。お父さんだけ行って」と中学生の娘から言われたことでした。「お母さんも行くんだよ」と言うと,自分は友だちの家に下宿してそこから学校に通うからと言うのです。娘は小学校で3回,中学校で2回の転校を経験していました

 子どもたちが学校を転校するたびに,親としては心が痛むものでした。新しい学校や友だち,先生方への不安。最初はなかなか馴染めず,毎回「また引越しだ」と涙をこぼすことを見るたびに,申し訳なくなりました。転勤の時期が近づく度に子どもたちは不安そうな顔をしていました。特に,友だちとの別れは毎回胸が痛むものです。「転校は辛くて大変だけど,今の友だちとも休みに逢いに行けばいいし,新しい学校でも新しい友だちが増えるよ。」と,毎回同じことを言っていました。

転勤の問題点

 一緒に隣の学校に異動した知人の子どもは新しい学校に馴染めず不登校になり,その後母子で元の学校に戻り,その先生は単身赴任になったことがありました。当時は管理職の単身赴任は数例しかなく,地域から批難されていたそうです。

 私も校長推薦の話があった際,離島3回目はないだろうと受諾しましたが,結果は離島でした。当時管理職の転勤は夫婦同伴が絶対条件でしたので,仕方なく高校生の子どもだけを自宅に残して赴任しましたが,親としては非常に複雑な判断だったと今でも思っています。

・南日本新聞より

 

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