阪神淡路大震災で被災した小2の女の子の話《R6》1月3号

 今から29年前,阪神淡路大震災の後,しばらくして神戸から被災した2年生の女の子を学級で受け入れたことがあります。その子は自宅で被災し,父親の祖母宅に一時的に避難してきたのです。転入書類を受け取ると,連絡欄には「家屋が倒壊し,母親がその子をかばって圧死したことやその後言葉が出なくなった経緯」など非常に深刻な内容が書かれていました。

・ 阪神淡路大震災   

 当時の私は,災害によるトラウマやストレスの障害に関する知識が不足しており,その子の心のケアについて適切なサポートが出来るか不安でした。子どもの表情を見ると,ずっとうつむいて目を合わせようとはしませんでした。同伴してきた祖母にどうして欲しいか尋ねると,「他の子と同じようにしてください」としか言われませんでした。

 学級の中では,すぐにクラスの女子が寄り添って優しく語りかけてくれました。私もその様子を見て安心していました。しかし,しばらくして「あの子は話しかけても何にも答えてくれない」と,徐々に不満を言う子が出てきましたが,私は「あの子も困っているので,仲良くしてあげてね」という程度で,具体的な指導は行いませんでした。

阪神淡路大震災後の心的外傷後ストレス障害

 一週間ほど経ったある日,職員室から教室に戻ると,その子を取り囲んで女の子たちが大きな声で文句を言っていました。その子は真っ青な顔で,涙を出すわけでもなく,ただうつむいていました。私はすぐにみんなを集めて,地震のショックで言葉が出なくなる病気になったこと,一人で誰も知らない学校に転校してきたこと,大切な人たちが震災で亡くなって苦しいことなどを話しました。

 その夜,祖母宅に伺い,その日の出来事を話し,指導不足と深い傷を負わせたことを謝りました。するとおばあさんは,「この子はこれから先もっと大変で厳しいこともあるでしょうから,耐えないとね」と一言つぶやきましたが,やはり辛そうな表情でした。それから2カ月後,父親が迎えに来て,また神戸に帰っていきましたが,結局最後までその子の声を聞くことはありませんでした。

 阪神淡路大震災後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)やそのショックによる鬱の発生などの研究が進み、職員研修等でストレス障害などの症状や対策が少しずつ理解されるようになりました。その後各学校でも特別支援学校との連携や講師招聘などで専門的な支援が出来るようになりました。後に教育センターの短期講座を受講すると,「失語症」や「失声症」という後天的な病状で,子どもたちが感情をうまく表現出来なくなることを学びました。

 阪神淡路大震災を契機に全国で善意あるボランティア活動が始まり,公立学校でもボランティア休暇が取れるようになりました。今回の能登半島震災でも多くの子どもたちが苦しんでおり,非常に辛い現実ですが,出来るだけ早く,復興していくことを願うと共に寄付の他に何か出来ることを考えてみたと思っています。

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