8月16日は,父の生誕100年目

 本日,8月16日は,亡き義父が生まれてちょうど100年目となる日です。

・旧鹿児島県庁舎本館 竣工1925年(大正14年)

 父は,1925年(大正14年)8月16日の生まれです。同じ年に生まれた著名人には,作家の三島由紀夫氏,落語家の林家三平氏,脚本家の橋田壽賀子氏,哲学者の梅原猛氏などがいます。それぞれの分野で時代を象徴する方々ばかりであり,父が生まれた年がいかに多彩な才能を生み出した時代であったかを感じさせます。

新しい幕開け

 1925年3月には,東京で日本初のラジオ放送が始まりました。新しいメディアと言われ,新しい日本とその文化の幕開けに,国民は大きな期待を抱いたことでしょう。当時の人口はおよそ6000万人(現在1億2,330万人)。父が生を受けてからの20年間は,国全体が戦争に突入し,敗戦を経て,焼け野原からの復興と歴史の渦に巻き込まれました。民主主義の確立という,まさに激動の時代へと突き進んでいきます。当時この年代の人たちが今の平和で豊かな日本を作り上げたのです。父もまた,その時代の一員として,静かに,確実に破壊と復興の歴史を生き抜いた一人でした。当時を生きた多くの人々に,あらためて敬意と感謝の気持ちを表したいと思います。

波乱万丈な父の人生

 父はすでに亡くなって20年が経ちますが,あらためて考えてみますと,大正14年(1925)の生まれですので,まさに激動の世紀を生き抜いた人であったと思います。

 1歳の大正15年が昭和元年であることから,父は昭和の年数と自身の年齢が一致する人生を歩みました。たとえば,昭和16年12月8日,太平洋戦争が勃発したときは16歳。昭和20年8月15日の終戦のときは20歳であり,その翌日には21歳の誕生日を迎えていたことになります。このように,年号と年齢が重なることで,父の人生の節目を非常に分かりやすく感じることができます。

 10代は軍事訓練に明け暮れ,17歳から20歳までは駆逐艦涼月に乗務し,戦争のまっただ中に身を置いておりました。終戦後の20代は,故郷の役場に勤務し,戦火で焼け野原となった町の復興作業に従事していました。

回りの人に慕われていた父

 その後は自衛隊に入り,佐世保や鹿屋などで生活を送りました。そして50歳で定年を迎えたあとも,再び役場に戻り,区画整理事業の担当者として多くの調整業務に携わる日々を送りました。代々受け継がれてきた土地を手放すことに,住民からの強い反発があったこともあり,父はその調整役として,日々住民と真摯に向き合っておりました。同僚たちからは,「あの役目は,あの人にしか務まらなかった」と言われていたそうです。

・ 海軍鹿屋基地

 並行して,地域の人たちにも信頼され,公民館長を20年以上にわたって務め,その間地域活動にも尽力しました。自衛隊退職後には文化刺繍という新たな趣味に出会い,青春を取り戻すかのように,多くの繊細な作品を残しました。

 父の人生を振り返りますと,青春と呼べる時期は戦争に費やされ,その後も国のため,地域のために働き続けた,まさに激動の人生でした。長男として父母や7人の弟や妹の面倒を見ながら,3人の子育て,病に伏した妻の看病と目まぐるしい人生を貫いた人でした。孫も4人授かり幸せな人生だったでしょういつもニコニコと笑顔を絶やさない優しい人でした。ありがとうございました。

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