想い出(16) 小さな教育長 幼稚園がなく山学校 昭和30年代,小学校に入る前のことです。近くに幼稚園がなかったため,私の遊び場は「山学校」さながら,父の務める学校でした。その頃の離島の学校は空襲で焼け落ちた校舎跡の一部など,戦後の混乱の名残がまだ残り,今では考えられな... 2024.08.29 想い出(16)
想い出(16) 妻の叔父さんの話 「大石内蔵助になるな」 私が初めて教頭になった年の夏,妻の叔父夫婦から飲み会に誘われました。叔父は自衛隊の鹿屋基地に勤務しており,岩川飛行場の「芙蓉飛行隊の美濃部指揮官」についても調査して詳しく知っていました。それまで戦時中,県内に特攻以... 2024.08.23 想い出(16)歴史・自然(78)
想い出(16) 父の戦争体験 戦艦大和の護衛艦「涼月」 軍艦防波堤 今年の3月,北九州市にある軍艦防波堤を訪れました。義父が乗艦していた駆逐艦「涼月」や「冬月」「柳」の船体が防波堤として使われているからです。戦後,昭和23年にこれらの船体は岩石や土砂が詰め込まれ,コンクリートで固定されたそうです... 2024.08.19 想い出(16)歴史・自然(78)
石塔「六地蔵塔・宝篋印塔・板碑」(6) 耳原六地蔵塔について(その2) 耳原六地蔵塔の持物と銘文(一)龕部の持物と印 六地蔵の各道や名称については諸説があり,特定することは難しいですが,その一つの方法として,持物や印によって特定することができます。ただし,耳原六地蔵塔は廃仏毀釈の影響を受けており,像上部が激しく... 2024.08.16 石塔「六地蔵塔・宝篋印塔・板碑」(6)薩摩半島の歴史(42)
石塔「六地蔵塔・宝篋印塔・板碑」(6) 頴娃町別府・松原校区の歴史③~耳原六地蔵塔について(その1)~ 耳原六地蔵塔とは 南九州市頴娃町別府には,市指定文化財・耳原六地蔵塔があります。山川石で作られており開聞町や指宿市にある六地蔵塔に似ていますが,建立された年代や支配関係等からむしろ加世田の六地蔵塔と近いものと考えられています。 六地蔵塔は,... 2024.08.14 石塔「六地蔵塔・宝篋印塔・板碑」(6)薩摩半島の歴史(42)
薩摩半島の歴史(42) 頴娃町別府・松原校区の歴史② 宝珠庵(小原の門前)と宝持庵(耳原の寺下)(1)宝珠庵跡・ 大日如来像(小原の宝珠庵跡) 尊顔横の十字架のようなものは,十字羯磨(じゅうじかつま)と言い,仏の智慧を象徴し,煩悩を打破する密教法具・魔除けです。 宝珠庵跡・大日如来像裏の碑文... 2024.08.14 薩摩半島の歴史(42)
薩摩半島の歴史(42) 頴娃町別府・松原校区の歴史① 耳原遺跡 耳原集落の北側に位置する大河田・高吉・松永の三叉路付近にある耳原遺跡では,縄文式土器の破片(塞ノ神式土器や石斧,ヤジリ)や弥生式土器が出土していることが知られています。このことから,紀元前3000年前の縄文前期には,加治佐川に沿っ... 2024.08.14 薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語⑤』 戦後処理の孫次郎(孫次郎の願い) 1598年の年末,泗川の戦で大敗を喫した明の董一元は,参謀の史龍涯と孫次郎を使者として送り,義弘に対して副将の茅国器の弟,茅国科を人質として送るとの和議を願い出てきました。孫次郎は明側の講和特使として,再び... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語④』 孫次郎の秘策伝授 「久虎のもとで中国古来の兵法を学び,軍師としての経験を積んだお主のことだ。明の勢いはいかがか」と義弘公が尋ねました。孫次郎は「20万の大軍でございますが,その実態は現地の農民を雇って成り立っている烏合の衆でございます。」続... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語③』 藩の役人として孫次郎 孫次郎が登城した獅子城 ・獅子城(頴娃城)天守跡 頴娃久虎は,孫次郎を家臣として迎え入れ,獅子城に住まわせました。1578年9月の日向石ノ城(西都市北側)攻撃や,1581年8月の肥後水俣城攻撃,その他の合戦にも孫次郎を... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)