尾畔(おぐろ)の雄風亭(ゆうふうてい)の保存について
鹿児島市には,多くの記念物や史跡がありますが,その一部が災害等により破損したり,私有地にあったりして保存が困難な状況にあります。例えば,城西地区には8.6豪雨で消滅した新上橋(豪雨で残っていた橋の一部と残骸は埋立処分)を筆頭に後醍院真柱や新納忠之介の誕生地の石碑や案内板などもありましたが,マンション建築等によって姿を消してしまいました。
鹿児島市原良の城西福祉館向かいの尾畔山山頂には,第25代当主島津重豪が桜島を望む名勝地に東屋造りの「雄風亭」を建てました。この地は当時,磯と並ぶ名勝地として知られており,島津家や小松帯刀なども別荘を建てた場所でもあります。この石碑は鹿児島が明治維新を成し遂げる大きな原動力となった重豪の開化政策への強い思いが刻まれている貴重な記念物なのです。
・かごしまデジタルミュージアムより
今では私有地のために登ることもできず,フェンスがあり,樹木が生い茂っているので景色を眺めることもできません。このままでは,あと数年後にはこの貴重な石碑も消滅する運命にあるのでしょう。世界遺産の多いヨーロッパでは考えられないことです。当ブログではこのような記念物等の貴重な価値を伝え,保存の方法を市民として考えたいという願いから発信したいと思います。
碑文の表面(左側)と裏面(右側)
原良の尾畔山の山頂に少し開けた広場があります。そこの中央部に雄風亭の石碑が残っています。
尾畔山頂の雄風亭の碑文
江戸時代の初期,尾畔園一帯は殿様の鷹狩り場でした。1638年,第19代藩主光久が原良町と西田,常盤の境に造った藩主別館が「尾畔御仮屋」です。三国名勝図絵に,「山を背に小川や池に臨んでいるので奥深くてもの静かな幽邃ところ」とあり,春は桜花,夏は蛍と緑,秋は紅葉,冬は冬鳥と雪など四季を通じて風情がある所でした。
・山頂からの眺め
尾畔山からの眺望はすばらしく磯別邸と比類するほどの観光地で,重豪の代になり,桜島や城下,田園地帯を一望する尾畔山頂に東屋造りの雄風亭を造りました。山頂跡地の石碑には,「前の太守中将公(重豪),嘗て一亭を尾畔東南峰の最高頂に作り,以て遊観の所と為す」とあります。石碑の碑文は,造士館初代教授の山本正誼(まさよし)に命じて作成させました。
石碑は,重豪が隠居する天明7(1787年)に設置されていますが,この時期は娘婿の家斉が将軍に就任するなど重豪が最も権勢を振っていた時で開化政策を勧めていました。一方宝暦治水の莫大な借財と共に,天文館や医学院,鷹狩り場の施設の設置などで費用がかさみ,藩は火の車状態でした。藩主斉宣は赤字続きの藩財政を立て直すため,石井手用水(1806年)による新田開発を進めると共に,これまでの贅沢な事業の見直しに取り組みました。そのため重豪の逆鱗に触れ,後の藩の騒動の原因になります。結果的に斉宣も隠居に追い込まれ,家督を長男島津斉興に譲らされた近思録崩れ(1809年)に繋がっていくことになります。
雄風亭設置後しばらくして,尾畔園沿いの畔地に用水を通し,田が広がっていきます。ここは正に重豪公の目指した政策の象徴の様な場所で,騒動の一因でもありました。当然ながらこの政策がなければ,後に薩摩が明治維新での原動力にはなり得なかったと思われます。
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